+++ Tea break +++

別に「こらえ性がない」とか、そういうわけではない。
もといた環境が環境だ。彼は従う立場にあったが、また多くの部下を指揮する身でもあった。待つのも仕事の内であったから、それをいちいち苦痛だと感じていては到底勤まらなかっただろう。
魔人王、などという仕事は。
少なくとも彼は猪突猛進型の性格ではありえない。その奥に激しいものを秘めているのは確かだが、機が熟すまでじっと耐えて待つことができるだけの冷静さと忍耐力を持ち合わせている。
それは過去異魔神に反逆したことを見ても明らかだ。
もっとも相手の方が一枚も二枚も上だったわけだが……
ただ、『できる』ということと実際に『やる』こと、この二つは全く別のものである。

……要するに何が言いたいのかというと、彼はじっとしているのがあまり得意でないというわけで。

ラダトームに身を寄せると決めた以上、覚悟はしていたのだ。
アステアは王位継承者であり、その伴侶に彼女と同じ義務が課せられるのは当然のことだ。
しかし……実際に仕事を目の前に積み上げられると、さすがに後悔が押し寄せてくる。
いまさら後悔したって遅いのだが、それでもアランは大きなため息を止めることはできなかった。
机にかじりついてお仕事。
自分でも笑ってしまうほど『似合わない』のは分かっている。しかし、やらなければならない。
とにかく終わらせなければ増えるだけなのだ。

なんとか一区切りつけて、かちかちに固まった(気がする)体をほぐしていると、アランよりも忙しいはずの人間がひょっこり顔を覗かせた。
「アラン、仕事はかどってる?」
「さっき大方終わらせたとこだ。……入れかわり立ちかわり誰かが来て、仕事持ってきやがる」
眉間にしわを寄せて唸るアランを見て、アステアはおかしそうに笑う。
アランの顔が更に不機嫌になった所で笑い止み、思い出したようにぽん、と手を打った。
「ちょうどよかった。一緒にお茶飲もうと思って」
アランはそこで初めて、アステアが持ってきたらしい机の上の盆に気がついた。
ケーキをのせた皿と、恐らく紅茶を淹れたポットが載っている。
「カップはここにあったよね。早く飲まないと冷めるから」
「……で、ご城主御自らお茶を運んできたわけか?」
「何か悪いことでも?」
「恐れ多いことで」
からかうようにアランが言うと、ラダトーム城の女主人は頬をふくらませた。
「いいじゃないか別に」
「俺は構わんがな。またソフィーが嘆くぜ。主人がそんなことをしては示しがつかないとか侍女の仕事をとるなとか言って」
「勝手に嘆かせとけばいいんだよ」
アランは思わず苦笑してしまった。あのぼんやりしているようでいて有能な、掴みどころの無い女官が彼は苦手だったが、アステアにかかればこの程度のものらしい。
何となく胸のすくような感じがして、アランは大きく伸びをした。
「仕事……疲れる?」「それなりにな」
実のところかなり参っていたのだが、弱音は吐きたくなかった。
女王たるアステアの方が、より重い責任を負っているのだ。
男の自分が先に音をあげるようなことは絶対にしたくない、とアランは思っていた。
見栄であることは分かっている。書類とにらめっこすることよりも、体を動かすことの方が自分に合っているのは明らかだ。
―――それでも……これは俺自身が選びとったものだから。
俺も丸くなったもんだぜ、と声に出さずに呟く。誰のせいでそうなったのかは考えない。
本当?とでも言いたげに首を傾げるアステアを見て、一言付け加えた。
「机から動けないのだけはどうにかしてほしいが」
「それはもう、諦めてもらうしか」
「分かっちゃいるけどな」
アランがどさりと椅子に体を沈めると、アステアが手ずからお茶を淹れて彼に手渡した。
口の中が乾ききっていたので、彼は特に文句も言わず受け取る。ソフィーがここにいたら小言の嵐だろうななどと考えながら。
「ケーキもあるから、食べてね」
「お前が作ったのか?」
「残念ながら、そんな暇はなかったよ」
そう言ってアステアが差し出した皿の上には、生クリームのたっぷりかかったシフォンケーキが鎮座していた。
「……俺は甘いものは好かん」
アランはじろりとアステアを睨むと、カップの中身を一息に飲み干す。
「知ってるだろう。何もわざわざこんな甘そうな……」
「疲れてるときには、甘いものを摂るといいんだよ。ね、食べて?」
そんなことくらい知ってると言いかけて、アランは言葉に詰まった。
上目遣いの視線。その魔力は決して侮れるものではない。
屈しそうになるのを堪えて、アランは彼女の瞳に揺れているいくつかの思惑を読みとった。
(…………おもしろがってやがる…………)
彼が断れないのを知っていて。
まぎれもない好意と愛情がその瞳には宿っている。それをアランが識っていることを、アステアはただ知っている。
そして、実は彼が押しに弱いことも。
ついでに言うなら、城内のことなら全てを把握しているソフィーを苦手としていることも。
(食べてくれるよね? 僕がこーんなに心配して持って来てあげたんだから。でないと後でソフィーに何言われるか分からないよ?)
アステアが上目遣いで彼を見る時は、大抵こういう『脅迫』だ。
端から見れば、いかにも甘い恋人同士の駆け引きであったが。
アランはカップを持ったまま動きを止めていたが、しばらくして諦めたように目を伏せ、のろのろした手つきでケーキを受け取った。
アステアに対して折れるのは別に嫌ではない。しかし生来の負けず嫌いの性格からか、やられっぱなしというのは性に合わない。
アランはどうにかして仕返ししたかった。
クリームの上からフォークを突き刺して、妙にわくわくした顔つきのアステアを眺めやる。甘いケーキを口に入れて顔を顰めるアランを観賞したいのだろう、なんだかひじょーに嬉しそうである。
アランは意を決してケーキを口に入れた。
ケーキと生クリームの絶妙なハーモニーが口腔内に広がる。確かにおいしい、と彼は思った。少なくとも甘ったるいとまでは感じない味だ。
それでも一切れ食べれば十分すぎるほど甘い。お茶が欲しかった。
「口直しいる?」
「いる」
そう答えた時、アランの脳裏にちょっとした悪戯が思い浮かんだ。
それは彼女への仕返しにはちょうどいいように思えた。何より……
……いや、考える前に彼は実行していた。
ポットに手を伸ばしかけていたアステアは、ぐいと後ろに引き寄せられた。
「え?」
腰を抱き寄せられたのだと理解する間もなく、アステアはしっかりとアランに抱きしめられ、唇を奪われていた。
「んーっ!?」
驚いて離れようとしても、完全に捕まえられて動きが取れない。
アランの突然の行動にパニックに陥ったアステアはほとんどされるがままだ。
くちづけは次第に深くなり、アステアはわずかな抵抗も止めて目を閉じた。
……長いキスが終わってアランが腕をほどくと、アステアはぺたんと床に座り込んでしまった。
「な……いきなりなにす…の……」
「何って」
心ここに在らずといった表情のまま荒い息をつくアステアを、アランは面白そうな表情で見やった。
「見たまんまのことだが?」
アステアは羞恥と怒りで顔を真っ赤にした。それさえも、今回優位に立てたアランから見れば微笑ましいものである。
「……こんな場所で……し、舌なんか」
アランはちろりと舌を出した。まるで悪戯がばれた時の、全く反省していない少年のように。
「口直し。お前が食べろって言ったんだぜ?」
「……ばか!!」

余談だが、その日の女王は全く仕事が手についていなかったという……