+++ 幼年期の終わり 序+++

「見ろ」
血を纏いつかせた剣を目の前につきつけられて、アステアは思わず身を引く。
聖なる剣に走った幾筋もの赤い道が、剣に張り巡らされた禍々しい血管のように見える。
最初の印象は容易に消えてはくれなかった。
背中を駆け上がる悪寒に耐えながら、ただ滴り落ちていく血と体液を目で追い続ける。
上にした鍔の部分から徐々に赤い色が抜け落ちていく。剣の上を走っていた血管は形を失い、硬質なのに柔らかなオリハルコンの輝きが存在を主張しはじめる。
やがて最後の血の一滴まで地面に吸い込まれるに至って、アステアはくうと喉を鳴らした。


「聖剣……ロトの剣……」
「分かったか?」
アステアは声もなく頷いた。しかし聖剣の名に恥じぬ輝きを放つロトの剣からは視線を外すことが出来ない。
足下から畏怖と畏敬の念が湧き上がってくる。
確かにこれは、心強く清い勇者にしか扱えない……扱うことを許されない!
しゃら、と涼しげな音を立てて、アランは剣を鞘に仕舞った。
アランははっと顔を上げたアステアをほんの少し見つめて、すぐに背を向けて歩き出した。
「アラン」
「長居は無用だ。話は歩きながらでもできる」
声が沈んでいるように聞こえるのは、多分気のせいではないとアステアは思った。

「この剣には血油がつかない……全く、な」
アステアはこくんと頷いた。彼女もその目で確かめた事だ。
普通剣に血油がつかないということはありえない。斬ること主体にした剣だと、3人も斬れば肉と血と油で切れ味が鈍る。熟練の遣い手であればもう少しもたせられるだろうが、普通はそんなものだ。なまくらなら一人斬っただけで単なる棍棒になり下がるだろう。
『斬るための剣』というものは割合に繊細で、正しく扱った上できちんと手入れしないとまともに切ることすら難しいのだ。
ただし特に名のある剣や、魔法的な処理をした剣はまた別だ。
そういう業物は、あまり血油がつかないように鍛造され、処理を施されている。
普通の剣以上に長く戦闘に耐えられるようになっているのだ。
しかしそれらも器物である以上限度がある。あくまでも血油がつきにくく手入れし易いというだけで。
―――アランの持つ剣のようなとんでもない能力は無い。
ロトの剣は、アステアの目の前で見る間に輝きを取り戻していった。
これが現実にありえる光景かと目を疑ったほどに―――あっという間のことだった。
剣を汚していた液体は、まるで刀身の表面に膜があってその上を滑り落ちていったかの如く、剣に何の痕跡も残さず滴り落ちていった。
曇りひとつ無い刀身は、感嘆を通り越して存在そのものに対する畏れを抱かせた。
見ていただけのアステアでさえそうなのだ。
実際にロトの剣を振るうアランにとっては……。
「最初は気付かなかった。いや……殆ど汚れなくて便利だと思ってたんだったか。どんなに殺しても切れ味が鈍らない。使い勝手がいいってな。ただ雑魚相手に使うには良すぎる剣だったから、アルスの奴と相対するまでは殆どお蔵入り状態だったが」
「最初……」
「俺が魔人王と呼ばれていた頃だ」
まるでなんでもない事のように、さらりと辛い過去を口にするアランに胸が痛む。
アステアはまだその頃ラダトームにいて、魔王軍の侵攻はあれど、王女として子供として、そして優しい兄がいて……幸せに過ごしていた。
そう考えると彼が痛ましくてならない。
十歳にして魔人王となり、五年後アランの名を母親から授かるまで、殺戮のかぎりを尽くし血を浴びて育った少年。―――その裏で、少なくとも愛を受けて幸せに育ったアステア。
同じ立場だった筈なのに、どうしてこうも違う運命を与えられたものだろう。
「そんな泣きそうな顔でこっち見るな。昔の事だ」
昔と言うには、忘れるにはまだ早過ぎる―――それとももう、割り切ったのか、彼は。
仕方なかったのだと。
「でも」
アステアはぽつりと呟いた。
「君にとっては……やっぱり、忘れられない『罪』なんでしょう」
赤子の頃に国が滅ぼされ、親を知らず愛を知らず、異魔神の元で魔王となるために育てられた彼自身の生い立ちに罪はない。
しかし魔人王として立った後、彼は数多くの人間を殺している。数え切れない程に。
『俺に罪を忘れさせる』
そうだ、アランは罪と口にした。
彼にとってやはり過去の五年間は罪として捉えられているのだ。
たとえ誰が許そうとも、事実は事実として逃げを許さず厳然と立ち塞がっている。
そして彼はそれを良しとした。
罪は罪であり、決して忘れないことを選んだ。
強い意志がなければ出来ないことだ。人はそう意図せずともより楽な方へと流れたがる。
アランは過去の全てと向き合うことを選び取り―――なのに、彼の剣は。
「ロトの剣は君の意思を簡単に崩す……そういうこと?」
アランはふと表情を和らげた。「推測が上手い」、言われてアステアは赤面した。
そういえば何を勝手に想像していたのだ。
彼の心情を慮ることはもちろん必要だが、自分が暴いていいことではないのに。
「あの、ごめんなさい」
「謝らなくていい……大方合ってるからな」
アランの剣がかちゃりと音を立てた。悪い物のように言われて抗議しているのかもしれない。
「キレイすぎる刀身を見るたびに、何一つ手を汚していないかのような錯覚に陥る。同時にこいつは否応なく俺に突きつけてくる」
アランの声は落ち着きすぎていて、逆にアステアを不安にさせる。
お願いだからそれ以上何も言わないで。
何も聞きたくない。あなたが発する言葉は、間違いなく私にとっては……。

「俺は殺す者だ」

低い声はやけにはっきりと聞こえた。
それは自嘲、それとも諦観?
自嘲であればよかった。それならばつよく否定することができる。
諦観でも構わない。諦めという感情ならば、優しくなぐさめることができた。
だが……彼はただ変えようのない事実を述べていた。
他に余計なものの入り込む隙間もない。単なる過去から今に続く現実として彼は言った。
たとえアステア自身が、それを認めたくなくても。
「俺は罪人なんだ―――ジャガンという名の、な」
彼の言葉はアステアの中でひどく不快に響いた。
そんな風に肯定して欲しくない。
確かにアランは魔人王ジャガンという過去を背負っているけれど、許されてここにいるのだ。
アランはアランなのだ。人々を救うべく、勇者の血を享けた者だ。
今はもう、ジャガンでは、ない。
どうして罪人だなどと思う必要がある?
……アステアの心に小さな亀裂が走る。
否定したい想いと、あの時、アランが人を殺してしまった瞬間の記憶が、ばらばらに散らばっている。
ドチラガホントウ……?
アステアは大きくかぶりを振った。
アランは罪人なんかじゃない。
それは仲間である自分が一番よく知っていることなのだから……私が彼のことを信じられなくてどうする?
アステアの気持ちの中には、彼女の希望が多分に含まれていたが、アランの発言に衝撃を受けていた彼女がその事実に気付くことはなかった。
「……やめてよ、そんな……」
「アステア、お前は血に魅入られることはないのか?」
「血に……?」
「いや、馬鹿なことを聞いた。忘れろ」
そんなことを聞かれては気になって仕方なくなるというのが分からないのか、この男は。
アステアはムッとしてアランを見上げた。
アランは足元に注意を払いつつ、前を見て黙々と歩き続ける。
全く動揺のカケラもない彼に腹が立つ。こっちはこんなにアランの言葉に心を揺らされているというのに。
黙ったアステアに構うことなくアランは続けた。
「剣ってのは、ただひたすらに敵を殺すためのものだ。斧のような使い方はできないし、小刀みたいに他に利用するアテもない。やろうと思えばできるのかも知れんがな。多分そうしたら、今度は本来の用途に使えなくなる」
確かに長剣を料理に使ったりはしない。
邪魔な枝や藪を刈ることはあるが、そういう時は戦闘用の剣を使うことはまずない。
「普通の剣は斬れば切れ味が鈍る。刀身は汚れる。それが普通だ。けど、このロトの剣は……戦闘が終わっても、まるで何一つ斬ったことがないような顔をしてすましてやがる。殺すための物のくせに、私は無垢です、ってな」
「……」
「俺は自分が善良な人間だなんて思ったことはない。他人に受け入れられようとも思わない。罪は罪だ……それが全てだ。俺はこの剣とは違う……」
アランは何を言う気なのだ。足早に歩く彼の顔が見えないことに不安を感じる。
目の前にいるはずの彼が、どこか彼女の知らない場所へ行ってしまいそうで恐ろしい。
彼はアステアの知らない世界を知っているから―――
ひらめくマントの裾をそっと掴むと、アランがちらりと振り向いた。
いつもならばこんな恥ずかしい真似は決して出来やしないのに、何故やってしまったのか。
それはアステアにも分からなかったけれど。
向けられた氷蒼の瞳は優しげに見えて、淀んでいた不安が少し散る。
ああ、良かった、彼はこちら側にいる。
けれど湧き上がった思考を冷静に捉えて、アステアは全身が凍りつくような恐怖を感じた。
アステアの安堵は、彼女の抱く漠然とした不安と危機感の裏返しだ。
そのことに気付いてしまったから―――
「血を」
「? 何だ?」
「血を、見ないで、アラン」
言ってから後悔する。何も言わなければ、決定的な言葉を聞かずに済んだのにと。
「僕が恐れているのは、多分、君が―――」
『向こう側』に行ってしまうこと。ロトの血の制約を外れて、ジャガンという存在に戻ること。
だって彼はヒトを殺せるのだ――理由があれば、何の躊躇いもなく。
戦士としてならば優秀な資質であると理解しているのに、アステアのどこかにそれを否定する心がある。
彼はロトの血族だから。アステアと同じ一族だから。
飲み込んだ言葉の意味を、アランはきっと正確に把握しただろう。
外套の裾を掴んだままの彼女を咎めもせず、ただほんのわずか、歩く速度が落ちる。
「言ったろ。俺はこの剣とは違う。血を見るたびに思い知る」
―――分かっているんだろう。
自分の内側から問いかける声に、アランはああ、と肯定した。
罪はいつもそこにある。突きつけては忘れさせようとする、それは何と残酷なつるぎ。
アランはアルスではない。彼と同じ存在にはなれない。
そんなことはカケラも望んではいないけれど。
勇者と呼ばれても、誰に許されようとも、自分だけは忘れてはならない、許してはならない事実。
アステアが悲しそうに顔を歪めてアランを見る。
どうしてそんな表情をする。お前は最初から知っているはずだろう。
「……俺は殺す者で……やはりジャガンなんだよ」
「違う!!」
アステアの感情的な否定が突き刺さる。見えない何かがざくりと裂ける。
「……違う、よ」
アランは答えを返さず歩みも止めない。アステアはアランの外套を握ったまま。
木々の生む陰の下を、すれ違ったままの二人は黙々と歩く。

流れる血はもう一つのものを呼び起こす。
おまえはジャガンだと。人殺しだと。
そしてアランはそれ<罪>を受け入れているのだ―――ジャガンとして。


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