+++ 前夜 +++

どこまでも単調な波、潮の匂いがする風の音。
風をはらんだ帆、船の軋み、衣擦れ、鎧と剣の鞘のこすれる音。
空は生者の絶望を塗りこめたような嫌な色に染まり。
暗い海は悲しみと嘆きを湛えてゆるやかに波打つ。
「今日は晴れてたのに……何でこんなに暗いわけ!?」
小さき者が、その身体に不似合いなほどの怒りの感情を撒き散らしている。
止まない風の中を器用に抜けて、妖精は目当ての者の所へ舞い上がる。
「ねぇ、そう思わない、アルス?」
「うん、そうだね……」
アルスの返事は曖昧なまま途切れ、しばしの沈黙が落ちた。
「…アルスってば」
「あ、ごめん」
しかし、アルスは謝っただけで再び沈黙する。
自分の思考に没頭しているその様子に、妖精…ティーエは諦めのため息と同時に、気遣うような目を向けた。
……三ケンオウとの離別。
それはアルス自身が望んだ事であり、奴ら自身が選びとった事でもある。
しかしやはり、いささかながらアルスの心に影を落としたようだ…。
「…何を考えている」
「……異魔神の事を」
あらぬ方を見て、俺と視線を合わせずアルスは呟いた。
どうやら俺の予測は当たっていたらしい。
小さく笑って視線を転じると、不機嫌な顔をした妖精が俺を睨みつけていた。
「…何笑ってるのよ」
「別に」
「言っておくけど、あんたなんかにアルスを笑う資格なんてないんだからね!」
「そうか」
「そうかとは何よ!」
「貴様が俺に突っかかってくる理由もないだろう」
「う…」
こうるさい虫を黙らせて、俺は再びアルスを視界に入れた。
……望まれた勇者。
アルス、お前は自分の意志で勇者になったのか?


俺はずっと考えていた。
母の命を宿し、父に許され、勇者としてここに戻ってきてから……ずっと。
俺は俺自身の意思で異魔神を倒すことを決意した。
けれど……本当にそうなのか?俺は自分の意志で決めたのか?誰か…何者かに操られているんじゃないか、と……そんな懸念が頭から離れない。
俺は異魔神の駒にすぎなかった……ならば今の俺は?
ルビスか…ロトの意思に操られているんじゃないのか?
ならば俺は、何のためにここにいる…?


空は暗い。
恐らくは異魔神の魔法の後遺症。粉塵が舞い上がって、太陽光を遮っている。
夜も近い……空の色はだんだん闇色へと染まりつつあった。
その空を眺めてふと、奇妙な考えが頭に浮かんだ。
―――今俺がここでアルスを殺したとしたら、どうなる?
血に濡れたアルスと俺の姿が頭の隅をかすめた。
勇者は倒れ、俺は再び呪われる。
最後の砦のアステアは、きっと竜王か俺が……殺すのだろう。
そして異魔神は、目的を達して…………
それもいいかもしれない、とどこかで誰かが囁く声がする。
(勇者など、世界の破滅を遅らせる存在でしかない。俺は、パズルの不要なピースなのだ。どうせ終わるなら早めてやればいい。生きていたって、所詮俺は一人なのだから)
凍りついた目で、俺はアルスを見つめた。
そう、殺してしまえば―――
(そしてまた、異魔神のヤロウの思惑にはまるのか?)
……それは願い下げだ。
苦笑して、無意識のうちに剣にのびていた手を引き戻した。
単調な波の音だけが耳を打つ。
俺は思考の堂堂巡りに気がつき、頭を振って今の考えを振り払った。
そう、考えても仕方のないことだ。
誰かの手の上で踊っていようとも、それが俺の目的に適うことなら問題はない……。
無理にでも、そう思い込むことにした。


「全くもう…タオ導師まで沈んじゃって、無視するんだから!」
思考の迷路から抜けだしたとたん、うるさい妖精が舞い降りてきた。
これだけ怒っていてよく疲れないものだ……妙な事で感心していると、なにを思ったかそいつは俺の方へやって来た。
「……何か用か。八つ当たりなら一人でやれ」
「一人じゃ八つ当たりにならないじゃないのよ!」
「モノにあたればいいだろう」
「あんたが一番あたりやすいのよ」
「迷惑だな」
「わざとやってるのに決まってるじゃない」
「…無意味なことを」
「無意味じゃないわ。あんた、今かなり危険なこと考えてたでしょ!?」
決めつけてくるティーエの台詞に俺は一瞬面食らったが、顔には出さず問い返した。
「何故そう思った?」
「さっきのあんたの目つき、昔とそっくりだったからよ。“ジャガン”とね!」
自然と、唇が笑みの形につり上がるのが分かった。
「それで」
俺は薄い笑いを顔に張り付けたまま、言葉を続ける。
「それで、貴様は俺をどうしたい? またジャガンになるかもしれない、俺を」
妖精は小馬鹿にするようにふんっ、と鼻を鳴らし、
「どうもしないわ」
偉そうに言いきった。
それは、俺にとって少々意外な答えではあったが……。
「理由は?」
「アルスがあんたを信用してるからよ。私はアルスと共に在る。だからアルスを信じてる。アルスがあんたを認めてる以上、私がどうこうする理由はないわ。ただし、」
妖精はにやりと笑った。
「好き嫌いは別だけどね!」
きっぱりと言い放った小さき者の体が、大きく見えた。そして、突然湧き上がる笑いの発作。
「ふ…くっくっく……」
大爆笑しそうになるのをこらえ、身体を折り曲げて必死で笑いをかみ殺す。
そうだ、俺は一体何を悩んでいる? 今存在しない者の事など考えてどうなる。俺が何を為すかは俺が決める……ずっとそうしてきた。
(好き嫌いは別。単純じゃねぇか。異魔神だけは許せない…それだけだ)
「ちょっと…気持ち悪いわねー、何笑ってるのよ。あんたってそんなに馬鹿笑いするキャラクターだった!?」
「くくっ……いや、ちょっと、な」
何とか笑いを収めて、俺は目の前の妖精に問い掛けた。
「……お前は何のために行動する?」
「そんなの、自分とアルスのために決まってるじゃない」
やはり偉そうに答えて、ティーエはアルスの方を振り返り、じっと見つめて呟いた。
「あんたもそうした方がいいわよ、アラン。余計なことを考えなくてすむから」
そのまま、俺と話していたことなど忘れたかのように、アルスに向かって飛んでいく。
俺は大きなため息を吐いた。
あのうるさい妖精と話して疲れたという理由もあるが、今更ながら、俺は自分の愚かさに気がついた。
「……そうだな、歴史の駒の役目はアルスの奴に任せよう。俺は、俺の思ったとおりに動くだけだ。他人の思惑など……知ったことか」
俺が納得していれば、それでいい。
アルスとティーエに視線を走らせる。
空に夜の帳が降り、満月の青白い光が、舳先に佇む二人を照らしていた。
「ルビスやロトの期待にはお前が応えろよ。せいぜい苦労するんだな、勇者様」
戦いは、これから始まるのだから――。