+++ ひかりをたべるさかな +++

「なにそれ、聞いたことない」
「そりゃそうでしょ、オーブの民話なんだから」
「へー……地球の人間っておもしれぇな。月に魚がいるって?」
「ただの昔話。子供に語るお話よ」
「寝物語に?」
「っっ! だから子供にって!」
「くくっ、ミリィ、今やーらしいこと想像したでしょ?」
「し、してないわよ!」

月には魚が棲んでいる。ミリアリアが小さい頃、オーブ本土に住んでいた時に聞いたお話だ。
実際満月になると月の表面に魚のような模様が見えて、幼い彼女は本当に月に魚がいるのだと信じていた。
やがて成長するにつれてそんなことも忘れていったが、密かに羨ましく思っていたディアッカの金髪を眺めていて、不意に思い出したのだ。

――アンタって光をたべる魚みたい。

ディアッカが首を傾げたので、それが非常にローカルなお話であることに気がついた。
オーブ住民なら大方誰でも知っているが、それ以外の地域に住む人にはなじみのない話だろう。
とはいえ地球に住んだことのある人間ならば、ああ月の影の伝承かとすぐピンと来るはずだ。見えるものはカニであったり、餅をつく兎であったり。
しかしずっとプラントに住んでいるコーディネイターには、そういった伝承の蓄積がない。それらは各土地や住民、彼らの生活や地形天候といった様々なものが絡み合って生み出されてきたものだ。
例えばその最たるものが古い宗教や各地に残された『神話』である。
新しすぎるプラントでは決して誕生しえない。
――そういう意味では、プラント生まれのコーディネイターは悲しい存在であるのかもしれない。
何故なら彼らはあまりに科学的に高度な誕生をしたが故に、それ以外のものに自身のルーツを求められないのだ。
様々な人種の寄り集まりでもあり、同時に民族性など無きに等しいプラントに、何かひとつの伝承が根付くわけもなく、神すらも単なる概念でしかない。
もしかして……だから彼らはラクスの歌を望むのだろうか。優しく心を委ねられる、揺りかごのような歌声を。
「ミリィ、何考え込んでんの? 俺に見惚れてた?」
「なわけないでしょ馬鹿」
嘘でも本当でも、実はそうですなどと言ったら付け上がるだけだ。餌は極力遣らないに限る。
ミリアリアの向かいに座って薄いコーヒーをすする男、ディアッカ・エルスマンは確かに恐ろしく綺麗な男だ。
豪奢な金髪や煌く紫の双眸はそのままに、以前喧嘩別れした時よりもはるかに大人になって(肉体的にも、精神的にも)ミリアリアの目の前に現れてくれた時は、悔しさとか腹立たしさとかその他諸々の感情で眩暈がしたことを覚えている。
彼と再会してから三年が経つ。
戦後しばらくの間、ミリアリアはオーブの軍人として働いていた。AAに乗船していた者としての責任は果たすべきだと思ったからだ。
それに国主として立ったばかりのカガリには信頼できる歳の近い友人が必要だと、キサカ一佐に残留を要請されたという理由もある。
もちろんそんな要請がなくともミリアリアは残るつもりでいたが、逆にカガリに窘められたのだ。
やりたいことがあるのだろう?と。
「カガリの方が年下なのに……」
少し恨めしげに言うと、カガリはかつての迷いなどみられない、晴れやかな顔つきで笑った。
「私はオーブの母だからな!」
そりゃかなわないわ、と二人して大笑いしたものだ。
結局それで一年だけカガリの傍についていたのだが、その間に余計なものがついてきた。
ネオジェネシスが撃たれる直前、ひょっこり(という表現がぴったりだとミリアリアは思っている)連絡をつけてきたディアッカだ。
ディアッカは少ない暇を見つけてはせっせとミリアリアに会いに来た。
ミリアリアがオーブにいた頃ならともかく、カメラマンに復帰してからもしょっちゅう連絡が来る。
会いに来てくれるのは、まぁ、嬉しい。
しかし彼はザフトの軍人で、しかもあの戦闘の折エターナルを援護していたことから、銃殺刑になっていてもおかしくないと聞いたのだが……本人はにっこり笑うだけで答えようとしなかった。
ミリアリアを心配させたくないのか、それとも口に出せないような手段で居残ったのか?
この男の場合、どれでも説明がつきそうな気がして油断がならない。
とはいえリアルな事情を鑑みるならば、元々少ないプラントの人材を(それも若くてかなり優秀だ)殺してしまうよりは、取引をするなり、命令で縛るなりして働かせた方がいいと評議会は判断したのかもしれない。
実際プラントの被害は前の戦争以上に激しかった。ジブリールの放ったレクイエムによる被害は甚大で、未だその被害から立ち直れていない所も多いと聞く。人手はいくらあっても足りないし、軍人の仕事は山積みの筈なのだ。
だというのにこの男は、一体どこから時間を捻り出しているのだろう?
うーんと考え込んでいると、コンコンと軽い音が耳に届いた。
見ると拗ねたディアッカがコーヒーカップの角で机を叩いていた。
……精神的に大人になった、なんて評価を下したのはどこの誰だ?
「……やっぱり子供だわ……」
「何か言った、ミリアリア? ところでさっきの話。光を食べる魚……って、何?」
「何、興味あるの?」
うん、まあ少しは。ディアッカは曖昧に微笑んだ。

  †

 オーブの海に、大きな金色の魚が棲んでいました。
 金の魚は彼一匹で、ひとりぼっちだった金色の魚は仲間が欲しくてたまりませんでした。
 ある日水面近くに上がってきた魚は、太陽の存在に気がつきました。
 魚は自分とよく似た色の太陽に恋焦がれて、なんとその光を全部食べてしまったのです。
 おかげで地上は闇に閉ざされてしまいました。
 魚は光を食べてますます光り輝きましたが、太陽はもっと美しく輝いているため全く気付いてくれません。
 どれだけ光を食べても太陽に近づけないので、魚は神様に頼んで自分も空に上げてもらいました。
 魚を哀れに思った神様は彼の願いを叶えましたが、同時に一つの義務を課しました。
 世界中を闇にした代償として、月となり夜を照らすことを命じたのです。
 ほんのわずかな間でも太陽に会えるならと、魚はその条件を呑みました。
 月が出ている間、魚は地上を照らします。
 そして新月の時だけ、その一途な想いを伝えるために太陽に会いに行くのです。

  †

「……っていうお話」
ミリアリアが話し終えると、ディアッカが妙に考え込むような顔つきで唸っていた。
「……つっこんでいいかな?」
「昔話につっこみを入れてどうするの」
そりゃあ宇宙を住処にしているこの時代に神様? とか月が魚? とか焼き魚になるんじゃないのとか思うところはあるだろうが、昔話と言うのはそういうものだ。詳しい根拠なんてものを求めてはいけない。
「……で、どの辺が俺と似てるって?」
ミリアリアは可愛らしく首を傾げて、イイ笑顔で言ってやった。
「永久に片想いし続ける運命、なところ?」
この時のディアッカの顔こそ見ものだった。本気で『世界の終わり』みたいな表情になり、ミリアリアはさすがに申し訳なくなって冗談よ、と告げた。
「そうね、きらきらしてるところ。もう一つは短い時間しかないのにしょっちゅう私に会いに来るところ」
「オマエそれ強引すぎ」
「なによ、そのまんまじゃない」
反論すると、ディアッカは重々しく首を横に振った。そして正面からひた、とミリアリアを見据える。
「俺は好きな奴に会いに行くのに、余計なものの力なんか借りねー」
「イザークさんは?」
「あ痛っ」
親友にして上司でもあるイザーク・ジュールの決済がなければ降りてこられない筈だと思っていたが、本当にその通りだったようだ。
彼はディアッカにどれだけの迷惑をかけられているのだろう、もはや慣れっこだとしたら申し訳ないことだ。
(って何で私が申し訳なく思わなきゃいけないのよ)
憮然となったミリアリアの耳に、追い討ちをかけるようなディアッカの不満声が響いた。
「ミリアリア、せっかくのデートに水を差す発言禁止」
「言ってなさい」


今宵は朔の月。金の魚は太陽に会いに行っている頃だろうか。
無音無風、絶対零度の世界を泳ぎ、熱持つ恋しき者の所へ。
空気の層の下、魚のいない夜のどこかで、熱い吐息と身体を絡ませあい、上り詰めて静かに果てる。
全身を弛緩させてぼんやりと見た窓の外は、星を描いた闇のカーテンが空を覆いつくしていた。
ミリアリアは、それと対照的に真っ白なシーツの海で静かにたゆたう。
「ミリィの方が魚みたい」
つい先程までミリアリアを蕩かしていた艶のある声が額の辺りで響く。
見上げようとすると、ディアッカの薄い唇がまぶたをかすめ、目の下の窪みをざらりと舐めていった。
「くすぐったい」
「お好みでない? じゃあキモチヨクなる方を」
「いい加減休憩させなさいよ! 私がアンタの体力に付き合えるわけないじゃない、ばか」
「えー」
えーじゃないと睨みつけて、ミリアリアは頭からシーツを被った。そうしないと何だか泣けてきそうだった。
「ミリィ?」
自分の名が甘やかに囁かれると、心が悦びに震える。
毎回会いに来られるたびに餌は遣らないと心に決めるのだが、気がつくと流されている。
五年前確かに振った筈なのに、どうして再びこんな関係になっているのだろう。
自問自答したが、答えは一つしかありえなかった。
「金の魚は私の方だったのかしら」
「ん?」
「認めたくなかったし、何度も否定したけど。私……」
輝くばかりの美貌を持つ華やかなディアッカ。海に泳ぐ魚から見た太陽のような。
昔話と違うのは、魚の方がひどく地味なこと。
言いよどんで閉じてしまった唇をディアッカの長い指が伝い、大きな手のひらが頬を撫でていく。
外向きにはねたミリアリアの髪を指先でいじりながら、ディアッカは彼女の耳元に唇を寄せた。
「俺はミリアリアが好き」
ミリアリアの身体がひくんと震えた。「好き」だなんていつも鬱陶しいくらいに言われているのに、何故か瞬時にして顔が赤くなる。
情事の後だから? ……違う。
――今、だからだ。
「ミリアリアは、俺のこと……好き?」
ひどく不安そうな、希うような声音。女を蕩かす魅惑の美声が妙に情けなく響く。
そういえばディアッカはミリアリアが好きだと言いながら、こうやって何度も人の身体を抱いていながら、自分の事をどう思っているかと一度も聞いてはこなかった。
それをいいことに、ミリアリアは彼と再会してから三年の間、一言たりとも自分の気持ちを告げていなかった。
聞かれなかったから。……それは言い訳に過ぎない。
ディアッカが来るたびに文句を言いながらも喜んでいたのは、何故? 彼に忘れられていないのだと密かに安堵していたのは。時に叱られて励まされて甘えられて、胸の奥にほんのりと小さな明かりを灯していたのは。
「……私は」
額に落ちかかっていた見事な金髪をそっと撫で付けてやり、こめかみから頬の輪郭に指を這わす。
闇に浮かぶ紫の双眸を見返して、両手で彼の頬を挟み、静かに目を閉じて触れるだけのキスをした。
本当にただ触れるだけの、羽のような口付け。
それでもミリアリアから与えたのは初めてのことで。羞恥心から身を離そうとすると、力強い両腕が回されてミリアリアを虜にした。
恐る恐る見上げて、ひどく辛そうな様子でこちらを見るディアッカの目に戸惑う。
「ディアッカ?」
「口で。言葉にして、言って」
でないと信じない。駄々をこねるような声にミリアリアは思わず笑ってしまった。
やっぱり子供だ。そして多分、そのことを知っているのはミリアリアだけなのだ。
一度振った相手。だというのに再び追いかけてきた、綺麗で強くて我が儘なコーディネイター。語らぬ太陽などでなく。宇宙空間を隔てても諦めず想い続けてくれた金色の。
今まで封じていた言葉は唇からするりと零れ出た。
「好きよ、ディアッカ。あなたが好き」
告げた途端に目の前が真っ暗になり、息が出来なくなった。ディアッカが力の限り抱きしめてきたからだ。
「っ……ディアッカ! 苦しい!」
ミリアリアが暴れると、彼女の願い通りにディアッカの体は離れた。息を整えながら、少しは加減ってものを考えて、と言いかけたミリアリアの動きが止まる。
目の前にはただひたすらに愛しい者だけを見つめている紫の瞳………なんて幸福そうな。
そんな目で見つめられて嬉しくない女はいない。告白された時以上の歓喜がミリアリアの全身を駆け巡り、体温を上げる。
どうしよう、何も言えない。ミリアリアがぼぅっとしていると、ディアッカが囁くように言った。
「俺もオマエも金の魚だったってことかな」
「え?」
「お互いに太陽みたいな眩しい存在に惹かれ焦がれて、そしたら相手も同じお魚さんだったってコト」
何を一人で納得しているのか、ディアッカはクスクスと笑いながらミリアリアの頭を撫でている。
どっちも魚。確かにその通りかもしれない。太陽みたいな存在、なんてくすぐったくて可笑しいが。優しい手つきに身を委ねていると、ディアッカは突然妙なことを言った。
「ねぇミリィ、俺おなかすいた」
ミリアリアがきょとんとして見返すと、ディアッカはにまぁっと口元を緩めていやらしく笑っていた。
ミリアリアははっとして身構える。これは危険だ。今すぐ逃げなければ!
しかし既に抱きしめられた状態で逃げ出せるはずもなく、ミリアリアはディアッカの秀麗な顔を呆然と見上げるしかなかった。
「光を食べる魚はミリィっていう光が食べたいです〜」
「あ、こら、ちょっと! う、んん……!」
深い口付けとともに、ディアッカの両手が明らかな意図を持ってミリアリアの体をまさぐり始めた。
押し寄せる波が容赦なくミリアリアを翻弄する。全くこの男は。
泡の代わりにため息を吐いて、浅黒い肌に抱きついた。

――だって私も、あなたという光の傍で泳ぎたい。


06年1月発行合同誌初出
2009.3.3 イーヴン