+++Fragment+++

力強い腕に抱かれて眠りにつき、私は幸せな夢を見る。
記憶というものは緩やかに薄れていく。あれだけ何度も目にしまた思い出していたはずなのに、いつしか脳裏に浮かぶのは最後に彼が飛び出していった瞬間と、何も知らなかった頃に見せていた笑顔だけになってしまった。
それは当然のことだよと先生は言うけれど、彼を忘れることは私が私でなくなるということに等しい。
だから夢に彼が出てくると、ああ私はちゃんと彼を覚えているのだと安堵する。
記憶の引き出しの奥深くにしまい込み、もはや能動的には思い出せない彼の表情を繰り返し繰り返し見つめて、虚しい幸せに浸る。
「トール」
そう、虚しい幸せだ。目が覚めれば夢は霞の向こうに消えてしまう。
優しい記憶の残滓だけが体を満たして、私はそろりと目を開く。
ぼやけた視界が少しずつクリアになって、褐色の肌を目前に捉えた。
フゥと息を吐くと、強く腕の中に抱きこまれる。
首と肩の付け根のあたりを強く吸われ、体に走った微細な波に私は身をよじった。
「ディアッカ」
くつくつと笑う気配がして、テノールの声が耳に注がれる。
「オハヨ」
「……おはよう」
―――ゴメンナサイ。
薄暗いベッドの中で抱きしめられていた私は、羞恥といたたまれなさで小さくなる。
紫の瞳に見つめられると、心の奥底まで覗かれているような気分になる。だから私はどうしても覚醒してすぐに彼と目を合わせることができない。
哀しくて優しい夢を見た後は。
「まーだ恥ずかしいんですか。ミリアリアさん?」
大きな手が私の髪を撫で、薄い皮膚の上を舌と唇が這う。反応して再び情欲の火を灯そうとする体を意思の力でねじ伏せて、彼の胸を叩いて抵抗する。
怒りを込めて睨み付けてやると、私なんかよりずっと綺麗な顔が、何故か嬉しそうに笑うのだ。
いつまでも慣れない行為に恥ずかしがっているのだと思ってくれるならその方がいい。ディアッカのことだから全部お見通しなのかもしれないけれど……でも、どうしてなのか、な……。
私がトールの夢を見る時は、決まってあなたの腕の中―――

結局私はディアッカに甘えているのだ。
彼は遊び人の外見や言動に反して随分と面倒見がいい。皮肉な言葉の裏にひそむものに気付かないほど私は鈍感ではなかった。そうであればよかったと後になって思ったけれど。
心配してくれている相手をいつまでも邪険には出来ない。怒るにも拒絶するにも体力がいる。休憩のたびにまとわりついてくるのはうっとおしいと思っていたが、嫌ではなかった。相手をしてやるたびにへにゃと嬉しそうに笑うその顔を、見たいとすら思うようになっていた。
―――でも。
ミリィ、元気になったね。ディアッカのおかげかな?
からかうように言ったサイの言葉を、違うと否定する。どういう意味にとるかはサイの勝手だ。実際どれも正しいのだ、根本的なところが間違っているだけで。
私は元気になってなんかない。
外からはそう見えているだけで、私のお腹の底には少しずつ澱が溜まっている。
それは罪悪感とか虚無感とか、吐き出し切れていない私の悲しみが凝った底なし沼みたいなもので、浄化されないそれを私はずっと抱え込んでいる。
私は生きるためにトールの記憶を少しずつ磨り減らし、そのことに恐怖感を抱く。
忘却は神様の贈り物だなんて嘘だと思う。
だって底なし沼はこんなに広がっている………。
そうして沼が体中に広がりきって、私は緩慢に腐っていくのだと思っていた。
「苦しいなら助けてやろうか?」
ディアッカがそんなことを言い出したのがいつだったのか覚えていないけれど、たまたま食堂で二人になった時だったと思う。
その日に限ってディアッカは私に何もちょっかいをかけてこなくて、先に食事を終えた後も私の向かいで机に伏せっていた。
疲れているんだろう。単純にそう思った。AAでただ一人のコーディネイターである彼には、自分の機体のメンテの他に、複雑かつ煩雑な仕事がいくつも持ち込まれているはずだから。
いつもならざわついている食堂は、機械の作動音と私の食事の音しか聞こえない。
ディアッカは突っ伏したままで寝ているのか起きているのかも分からない。
だから私は彼をいないものとして扱い、味のしない食事を摂って、部屋に戻って夢も見ずに死んだように眠るはずだった。
「マズそうに食うよなー」
はっと顔をあげると、紫の目が私を見ていた。突っ伏したまま目だけを向けて……じっと獲物を狙う獣のように。
「なぁミリアリア、何が苦しいんだ?」
くぐもった声が耳に届く。私はこくりと息を飲む。
全てを見透かすかのように私を見つめる目が痛い。
「トールのこと、忘れられないから?」
「……ちがう」
「じゃあ、何で」
「逆よ。……少しずつ忘れていくことが辛いの」
ディアッカは黙って目を数度瞬かせた。それからゆらりと身を起こす。
大きな獣が起きあがる様を思わせる姿に、私は不覚にも見惚れてしまった。
それはディアッカが、今まで見せなかった表情をしていたからかもしれない。
「辛いなら、苦しいなら、助けてやろうか?」
「アンタに何ができるって言うの」
これは私だけの問題なのに。ディアッカなんかに何ができるの。
きっと今の私は泣く寸前の顔をしている。自分に対する哀れみでいっぱいで、崩れて歪んだ顔を。
「理由なら与えてやれる」
ディアッカは音もなく立ち上がり、私の背後に立った。振り向けずに固まっていると、体の前に褐色の腕がまわされてきた。顔の傍に、豪奢な金の糸がちらつく。
「り、ゆう?」
耳元でディアッカが笑った。ぞくりと背中に予感めいたざわめきが走る。
ああこれでもう私はどこにも引き返せない。避けられない未来を私は悟る。
「トールのこと、ちょっとずつ忘れてもおかしくない理由……」
座っていなければ確実に腰が砕けていた甘ったるい声。目的と手段が逆転していると警告する理性も、こんな核兵器並の威力を持つ声には無力過ぎた。
まわされた腕に力が込められる。逃がさない、離さないとでも言いたげに。
振り向いたらどうなるか分かっていた。けれど振り向く以外に道はなくて。
―――ごめんなさい。
誰に謝罪しているのか分からないまま、私はディアッカのくちづけを受けた。

トールを忘れる為に、忘れない為に抱かれる。何て矛盾。
けれどそれが私の心に安寧をもたらす。
いつまでこんな甘えを許してくれるんだろう。
過去のカケラを抱きしめたままの私。
一番安心できるディアッカの腕の中で、トールの夢を見る私なんかを、いつまで。

…………言い訳はしません。
2005.7.19 イーヴン