+++Gravity+++

ぷしゅん、とどこも変わり映えのしないエア音を響かせて、隊長室の扉が開く。
彼女の敬愛する隊長は現在出向中でここにはいない。代わりにデスクワークを押しつけられた副官がいるはずなのだが、彼は本来いるべき副官席に座っていなかった。
「?」
シホ・ハーネンフースは首を傾げつつ机に近づいた。
紙媒体の書類は少ないためあらかた片付けられていて、隊長の机の上に置かれている。端末の電源は落とされてはいないが、恐らくロックをかけているのだろう。ディスプレイには風景写真のスクリーンセーバが延々と流れている。
食事にでも行ったのだろうか、だがそれなら電源くらいは落としていく筈だ。
一体どこに……と何気なく周囲を見回して、シホはぎょっとした。
そこは彼女の位置から死角になっていて、また置かれている観葉植物が視界を遮っていたせいもある。
しかし全く気配を感じないということが有り得るのだろうか。
自惚れでなく、赤を着ている自分が。
不覚だった。だが現実に気付かなかったのだから、有り得たと言うほかない。
彼は客用のソファに深く身を沈めて目を閉じていた。
一般兵の軍服を見苦しくない程度に着崩し、背もたれに頭と背中を預け、脚を開いて、ぱっと見随分だらしなくのびているように見える。
しかし脚の間で組まれた手と、祈るように閉じられた目が、その雰囲気を不思議と静謐なものへと昇華させていた。
―――そうだ、これは祈りの図なのだ。
声をかけるのが躊躇われた。この空気を壊してはいけないと強く感じる。
仕事の続きをと声をかければ、多分彼はすぐに目を開けて、下らないお気楽なセリフとともに起き上がるだろう。サボリがばれた、といった顔をして。何事も無かったように。
―――そういうポーズを見せるのだろう。
シホは彼についてあまりよく知らない。というよりは、よく思っていないから知ろうとしなかった。
コーディネイトされた、生まれつきそういう外見とはいえ女好きのする容姿、軟派な言動もシホの癇に障った。これでかつては赤を着ていたエリートで、隊長と並ぶほどに優秀なのだから世の中間違っている。しかも一度ザフトを抜けて、元連合艦のアークエンジェルに乗艦していた経歴を持ち、尚且つ出戻ってきたという。
一番気に入らないのは、そんな彼が隊長の親友だということだ。
何故あの真面目で潔癖で厳格な隊長がこんな男と友人同士なのだと何度思ったことだろう。
けれど、今。
侵しがたい、静かではりつめた空気を纏うその姿。
シホは今まで知らなかった彼の一面を見て、それを意外だとは思わなかった。
むしろ納得していた。そう、彼はイザーク・ジュールの親友にして右腕なのだ。
隊長が信頼を寄せるに足るだけの何かを、彼は確かに持っている。
優秀であることは認めていたし、軽いだけの男ではないと頭では理解していたが、やはり先入観からどこか侮る気持ちはあった。シホは単純に彼の外面だけを見ていた自分を恥じた。
……何を思っているのだろう。何に祈っているのだろう。
多分、神なんて信じていないこの男が。
ほんの刹那の時、凪の海のような穏やかさを湛えた彼の顔を見つめる。
邪魔をしてはいけないとシホは踵を返し、
「シホ?」
突然背中に声をかけられ、つんのめるようにして立ち止まった。
振り返ると、一対のアメジストが彼女を見つめていた。どこか気だるそうな半眼の目。
なのに獲物を狙う肉食獣のような鋭い光を宿す―――彼を彼たらしめる瞳。
「―――ディアッカ」
ジュール隊副官、ディアッカ・エルスマンは唇の端を上げてにやりと笑った。
「声くらいかけてけよ、シホ。あ、それとも俺の寝顔でも見たかった?」
投げかけられたのはいつもの軽い調子の言葉で、やっぱり評価を下すのは早すぎるとシホは思った。
「言葉は正しく使ってください、ディアッカ。あなた別に寝ていなかったでしょう」
「ん、まあな」
つまり彼はシホに気付いていたということだ。
それなのにシホが背を向けるまで声をかけなかった。色々と腹の立つ男である。
「分かってたんなら何で声かけない?」
「それは」
言い淀んでしまったシホは、咄嗟の言い訳を思いつけず言葉に詰まる。
よく考えたらそんな必要は無かったのだが、今更言うのはなんとも気恥ずかしい気がした。
いつもなら打てば響くような確かな答えが返ってくるのに、この時ばかりは口を貝のように閉ざして逡巡しているシホを、ディアッカは興味深そうに眺めている。
黙秘権を行使したままシホが見返すと、ディアッカはほんの少し表情を和ませて「さんきゅ」と呟いた。
「??」
「大事な時間、だったからな。ホント言うと邪魔しないでくれて助かった」
「……先程の言動と矛盾していませんか」
「傍で黙って突っ立ってられたら、そう言いたくもなるだろ」
じゃあどうすればいいのかと突っ込むべきか、とシホは一瞬悩みかけ、すぐに流した。
ディアッカの言っていることは、要約すればああしている最中に傍に寄るなということだ。
―――最初の印象は、正しかったのか。
物音を立てるのが憚られる、ひそやかで清冽な空気を、確かに彼は纏っていた。
今ソファで伸びをしている彼には、そんな気配は微塵も無い。『いつもの彼』がそこにいる。
どちらが真実なのか、と。それは無意味な疑問だろう。誰しも他人に見せない姿の一つや二つは持っているのだから、疑問に思うことすら馬鹿馬鹿しい、筈だ。
それなのに。
「ディアッカ」
「ん、何?」
「何を想っていたのですか」
質問してしまった後で、シホはしまったと口を押さえた。
もっと他に言い様があっただろうに、よりにもよって『想って』などと……他人のプライバシーに踏み込むようなものではないか。
「あ、いえ……失言でした。忘れてください」
「別に構わねーぜ?」
いつもの皮肉めいた顔でなく、信じられないくらい柔らかな微笑を見せて、彼は言った。
「好きな人のこと」

最初に思ったのは、「何て似合わないセリフ」だった。
美しく華やかな女性を侍らせて歯の浮きそうな甘い言葉を囁きそうなこの男が、好きな人。
しかもニュアンスからして彼の気持ちの方が大きそうだ。
ありえない、ありえない。少なくともこれまでシホが見てきたディアッカ・エルスマンからは全く想像できない。
疲れたように首を振ったシホを見て、ディアッカは苦笑いを浮かべた。
「ホントだって。……アイツを感じてた」
「……あなたに好きな人がいるとは驚きです」
「うるせえ。俺だって好きな女くらいいるっての」
オマエ仕事以外でも厳しいなと言われ、褒められている訳ではないと分かっていたが、とりあえずシホは礼を言っておいた。はっきりと嫌がらせ以外の何物でもない。
だから嫌がらせついでに聞いてみることにした。既にディアッカに対する評価は変化しているが、少しばかり苛めるくらいならば構わないだろう。
今後彼とこんな話をするとはとても思えないし、やはりシホとて女性だ、恋愛話に興味はある。
女たらしな同僚の『本気の』話ならば、なおさらだ。
「片想いですか」
「違う、……と思う」
「あなたにしては不首尾なことですね。さらっと女性の心を奪っていきそうなのに」
「それが出来ない女だから、苦労してる」
どこかを見透かすように目を細めたディアッカの表情は、本当に切なそうで、愛おしそうで―――
思わずシホが赤面してしまうくらいに、恋に溺れた男の顔をしていた。
「弱っちいくせに、妙に意志が強いし素直じゃないし行動力はやたらあるし笑ったら可愛いのになかなか俺には笑いかけてくれねーしキス一つで顔面に正拳喰らわせやがったし……普通は平手だろ」
どこからどう聞いても惚気にしか聞こえない独り言を垂れ流すディアッカ。
「でも好きなんですね」
「ああ、好きだ」
惚気を遮ったシホの言葉に、ディアッカはきっぱりと頷いた。
「あいつは地球にいて、俺は宇宙にいて……どうしようもない物理的な距離が俺たちの間には横たわってる。立場だって違う。軍人と民間人、コーディネイターとナチュラル、なんてな。出会いもアレだったし、何で俺はこんな障害だらけの恋愛してんのかって思うね」
それでも彼の想いは揺るがないらしい。
大気圏と真空の世界を隔てた超遠距離恋愛を、この男は実際にやっている。
未だ地上との自由な通信は殆ど出来ないといっていい状況の中―――本気で。
「……相手の女性はあなたのことなんて忘れてるんじゃないですか」
「だろうね。今のあいつに俺のことなんか思い出してる余裕はあんまないと思うよ」
意外な答えが返ってきて、シホは少し面食らった。
ディアッカのことだから、余裕で「なわけないだろ」などと言い放つか、逆に焦った姿が見られるかと思ったのだ。
「じゃあ」
「滅多なことじゃ思い出しもしないだろーけど、俺とあいつは赤い糸で繋がってるから」
「あかいいと、ですか」
「何だよ、不満か?」
「似合わないなと思っただけです」
「そうか? なら……」
ディアッカはわずかに考え込む仕草を見せたが、すぐに言葉を続けた。
「磁力……いや、重力か引力かな。引き合うんじゃなくて、重力みたいに俺は常にあいつに引っ張られてる。姿が無くとも、見えない力を感じられる。だからどんな時でも、俺の心はあいつの傍にいるんだ」
ディアッカの口から出たとは信じられない、夢見るような想いに満ちた言葉。
先程感じていた気配を再び身に纏ったディアッカがそこにいた。
不意に納得する。彼の意識が『彼女』に逢いに行っているのだろう。
そんなのはただの錯覚だ、現実的ではない。
けれどこれはディアッカにとって紛れも無く真実だということは、シホにも分かっていた。
―――恋とは、理屈ではないのだと。
「……いずれ俺は再びあいつの処へ落ちていくんだと思う」
ミリアリア。
最後にそう、呟くのが聞こえたような気がした。
それはとても小さくて、軍事衛星の弱い重力に捕まって、床に溶け消えた。
いや、きっと消えていないのだ。だってディアッカが優しい目で笑っている。
それはきっと届くのだろう、彼女の元へ―――


デス種設定のディアミリをお届けします。でもミリアリア出てきません!(笑)
今回『G』については、タイトルを募集いたしました。
その際『瓜生堂骨董店』の久我直樹様よりいくつか候補を頂き、選んだのがこの『Gravity』です。
拙い創作ではありますが、久我様に捧げたいと思います。受け取って下されば幸いです。
2005.8.31 イーヴン