+++ 幼年期の終わり 12 +++

「食料に余裕はあるけれど、明日は薬草なんかも探しながら歩いた方がいいかもね」
火で少し炙った干し肉を冷まして口に放り込む。保存食だからそれほど美味しいものではないが、温めてからじっくり噛めば、それなりに味があるのだ。
「そう簡単に見つかるものじゃない」
アランの返答は夢がない、とアステアは思った。
「でもここ、ラダトーム北部と植生が似てるし……運が良ければね」
「アステア」
「えっ、何?」
「食べたらさっさと寝ておけ。常人より体力はあるかもしれんが、それでもかなり疲れているはずだ。最初は俺が見張りをする」
剣を抱え木の幹にもたれて座りこんだアランを、アステアは2、3度目を瞬かせて見つめた。
反論しかけて、はたと気がついた。どちらにせよ交代で見張りをせねばならないのだ。
男性の彼よりアステアの方が体力に劣るのは当然なのだ、先に休んで体力を回復するのは合理的である。
アランは見た目と冷淡風味ややオレ様的性格に反して(?)、意外と女性に対する気遣いを見せる。
また『力の使い方』というものを心得ているのだろう、特に腕力での強さを持つ人間に多い、弱者への傲慢さというものを持たない。
それが小器用な優しさとなって現れているようだった。尤も本人は全く気がついていないようだが。
「……うん、そうさせてもらう」
にっこり笑って答えたアステアの顔を、アランは怪訝そうに見た。


焚き火の向こう、アステアはよく眠っている。
もちろんいざとなればすぐに目を覚ますはずだが、今は穏やかに寝息を立てていて、まず当分起きることはないだろう。
「……元敵だった男の目の前で、よくまあぐっすり寝られるものだ……」
「うぅん……」
突然アステアが寝言とともに身じろぎし、アランは思わず息を詰める。
揺らめく炎と、木の爆ぜる、音。
炎に照らされた白い顔を凝視してしまって、ふと我にかえって頭を振った。
剣にかけていた手指をゆっくり解いていく。
(……修行が足りないな)
妙に強張ったままの手を何度か開いたり閉じたりして、元の感覚を取り戻す。
それほどぴりぴりしていたつもりはなかったのに、随分と身体は緊張していたようだ。
こんなに、何一つ隔てるもののない傍近くに―――人がいる。
多分そのことに自分が慣れていないからだと。アランは自分に言い聞かせた。
「にしても本当に……警戒心の無い奴」
いくら呪文を主に使うからといって、剣を身体から離す奴があるかとか、もう少し起き上がりやすい体勢で寝ろだとか、人を信用しすぎだとか、思ったことを頭の中で並べ立てる。
そうこうしている内に、奇妙ないらいらが腹の底から湧き上がってきた。
それは爆発するようなものではなくて、重い水がじわじわと溜まっていくような感覚だった。
かつて抱いたことのある怒りや憎しみとは違う『重さ』。
ずしりと身体に根を張るようでいて、なのにアランの精神を上に下にと乱す不安定な水。
あえて表現するならそんな感じだ。
それが何に由来するものか理解していないアランは、未だ大人にはなりきれていない。
「落ち着かない」
アランはわざと声に出して呟いてみた。
それで落ち着けるかと思ったのだが、はっきり言って効果はまったくなかった。
むしろ言霊として働いてしまったようにすら思える。
「……お前のせいか?」
あの時、あんなに空虚な表情をしていたのに。恐らく怯えてすらいたのに。
今こうして、彼を信じきって、無防備に眠っている。
アランはいつでも抜けるようにしてある“王者の剣”に視線を落とした。
静けさの中、ほんの数回、心臓が拍を打つ。
アランは音を立てないようそっと立ち上がり、ちらりとアステアを見て、そのまま木々の間に姿を消した。

アランが戦っている。
彼と協力して戦っているアステアがいる。
そして二人を見つめるもう一人の意識が『いる』。
必死で戦う自分と、それを冷静に観察している自分。視点が二つあるのに、意識は矛盾無く両方をとらえている。
意識はこれが夢であると認識しながら、現実として全てを捉えていた。
「アラン、援護は!」
「心配いらんっ!」
時折声をかけ合いながら、絶え間なく襲い来る魔物達を撃退していく。
四半時か一刻か、時間の感覚は不明瞭だったが、敵の姿がみえなくなった。
周囲には死屍累々と横たわる無数の死体。
ああやっと終わった、と息をついて、アステアは近くにいるはずのアランを探した。
振り向いた瞬間に目に入ったのは、盗賊の心臓に剣を突き刺しているアランの姿。
「アステア」
「―――あ、」
「終わったぞ」
何故アランはあんな無表情でいるのだろう。どうして血にまみれているのだろう?
白い顔が笑った。彼の頬に幾筋もの亀裂が刻まれていくのを、アステアは呆然と眺めていて―――
「血塗れなのはお前も一緒だろう」
周りをよく見ろ。
空からどろどろした、墨に似た色の何かが流れ落ちてくる。
それはあっという間に周囲を黒く染め変えてしまい、体の中にまで侵食しようと蠢いている。
見渡す限り真っ黒なのに、アランと地面の死体だけはくっきりと浮かび上がっていて、アステアの意識は恐怖を感じて一歩後退った。
「何が怖いんだ?」
アランは彼女に背を向けて歩き出した。
彼が一歩進むごとに、ぱきん、ぱきんとどこからともなく音がした。
「ま、待って」
「追いかければいいだろう」
追いかけてる。追いかけてるのに―――どうしてこの距離は埋まらない。
ぱきん。ぱきん。ぱきん。
アランの背中はもう見えないのに、音だけはどんどん大きくなっていって―――そして。

風が啼く。剣の主に抗議するかのように。
鋭い風切り音の後に、重い物が倒れる音が鈍く響いた。
「……夜間に、こんな足元の悪い所で戦闘なんかするもんじゃねえな……」
一応の警戒と気分転換を兼ねてうろついていたところ、近づいてきていた魔物に急襲されたのだ。
魔除けの香を焚いてはいたが、絶対ではない。強い魔物ほど香の効果は薄くなるし、賢い奴は香の近くに人間がいることを知っていたりする。
とっさの対応ができたのは、彼の戦士としての実力の賜物だろう。
敵の図体が大きかったことも幸いした。攻撃をまともに食らえば苦戦は必至だが、こちらとしても的が大きければ当てやすいというものだ。
左腕に傷を負ったものの、アランはなんとか勝利した。
傷口を確かめるべく月光の差し込む場所に移動し、剣を鞘に収めようとして、アランは何気なく刃を見た。
「……やはり」
アランの顔から表情という表情が消え失せた。
これまで意識したことの無かったある事実が、今になって妙に目に付くようになった。
自分に余裕ができたから気付いてしまったのか、それとも……と、思い悩んでも答えは出ない。
月光を浴びて涼やかに輝いている刀身だけが、アランを静かに見つめている―――

―――かちゃん
「!!」
金属の音に、アステアは弾かれるように飛び起きた。
身体がやけに緊張していて、長時間戦闘を続けた時のように心臓が早鐘を打っている。
目の焦点が合って最初に見たものは、橙色の光を反射するロトの剣の刀身だった。
視線を上げると、座ったまま剣を拾い上げる体勢で固まっているアランと目が合う。
しばらくなんとなく見つめあっていたが、先に声をかけたのはアランの方だった。
「……悪い。起こしたか」
「あ、いや……」
音がきっかけで目が覚めたのは間違いないが、そうするとこの動悸の速さは説明がつかない。
呼吸をととのえるべく大きく深呼吸すると、やや落ち着いた気がした。
「君のせいじゃなくて……夢、見たから」
「悪夢か?」
「うん多分……そう……もう覚えてないけど」
アランが出てきたような、という言葉は飲み込んだ。言ったところで「そうか」とか淡白な反応をされるだけだと分かっていたが、言えなかった。
夜の森という舞台故にではなく、漂う雰囲気が暗い。
アステアは翳りに満ちた表情をしていて、アランは夕方の事を思い出し、不用意な言葉は口走るものではないとひっそり後悔した。
(闇を覗いたような顔してやがる)
アステアの中の『魔物』が、悪夢となって現れたのだろうと推測できた。
でなければ精神的に強いアステアが、こんな暗い顔をする筈がない。
原因を作ったのは自分だと、アランは強い確信を持っていた。
(引き摺るくらいなら、俺について来るのをやめろ)
今さらそれを期待するのは無駄なことかもしれないが。嘲笑が口元に浮かぶ。
手に持った剣に視線を落とすと、無表情に見上げてくる自分の顔が映っていた。
「そういえばアラン……どうして抜き身の剣なんか」
「手入れをしていただけだ」
「こんな夜中に?」
アステアがひくりと鼻をうごめかせた。微かに漂う血の臭い。
「……もしかして、戦った?」
「ああ。寄ってきた奴がいたから」
「起こしてくれれば僕だって」
「お前は寝ていたし、魔物がいたのはもう少し離れたところだ」
「こんな暗い中……怪我は!?」
「少し。もう治した」
「見せて」
「お前は人の話を聞いてないのか。治したと言って」
「見せなさい」
アランに詰め寄り、有無を言わさぬ強い口調でアステアは言った。
アステアの勢いに押されてか、やや退きながらもアランは思わず頷いてしまう。
左腕を差し出すと、アステアは破れた袖を捲り上げ、慎重に傷跡を点検し始める。
居心地悪そうにアランが身じろぎすると、「動かないで」とぴしゃりとした声が飛んだ。
これは逆らうべきではないと判断したアランは、黙ってされるがままに任せた。
闇の中、点検しようにも炎の光だけでは正確なことは分からないが、肘関節近くに薄っすらと傷の跡があるのは分かった。
なるほど確かにひどい傷ではなかったらしい。
アステアはほっとして、何気なく傷跡に指を這わせた。
「んな……やめろっ!」
アランが慌てて腕を引く。拳王も目じゃない位の、物凄く素早い動きだった。
「あ……ごめん」
アステアは思わず顔を赤らめた。何してるんだと自分を罵倒しても、火照りはすぐには治まらない。
「俺の治癒呪文の効果を信用してないのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……。怪我したって……心配だっただけで。た、他意はないから、ほんとに」
どうして僕はこんな言い訳じみたことを言ってるんだろう、とアステアは泣きそうになった。
アランは横目でアステアを睨んだが、特に機嫌を損ねたわけではないらしく、袖を直すと再び剣を手に持った。
「て、手入れ終わった、の?」
「……………まあな」
返答までにやや間があった。アステアにすれば場つなぎの質問だったのだが、アランは妙に沈んだ顔つきで剣を眺めている。
虫の声と焚き火の音が、やけに大きく聞こえる。
何となく声をかけてはいけないような雰囲気を感じて、アステアはただ黙ってアランの隣に座っていた。
アランはロトの剣を見つめて。
アステアは炎を見つめて。
(俺は)(僕は)
(こわい)
黙り込んでしまうと、どういうわけか自分の思考に没頭してしまう事が多い。
こんな暗闇の中では特にそうだ。
ほんの一時互いを見て触れ合ったことなど忘れたかのように、二人は視線を合わせることなくじっと座って、思考の中に身を浸していた。
手を伸ばせば届く。
けれどその微妙な距離は、埋まりそうで、埋まらない。

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