+++ 幼年期の終わり 13 +++

形の定まらない夢が更に意味のないものになり、いままで捉えていた事象が消滅してゆく。
覚醒しかけている、と頭のどこかが理解している。
何だか腰が冷たい……ここはどこ? 僕は何をしているんだっけ……。


がさ、がしゃ、という物音が聞こえて、アステアは重い瞼をゆっくりと開いた。
最初に強い緑の匂いを知覚し、次いで焦点を結んだ目に茶色っぽい世界が飛び込んでくる。
「……」
「起きたか」
やや低めの声が耳に届いて、アステアははっと目を見開き、慌てて飛び起きた。
「っ…ごめん! 僕が起きてなきゃいけなかったのに」
「よく寝てたな、お前」
別に期待してないとまで言われ、さすがのアステアもむくれた顔になる。
要するに信頼されていないということだ。眠ってしまった以上非は自分にあると分かっていても、少しばかり感情が追いついてこない。
アランは焚き火の跡に土をかけて火が消えているかどうか確かめている。
責めないの、と聞こうとしたまさにその時、アランが狙い澄ましたかのように口を開いた。
「別にお前を信用してないわけじゃない」
一瞬心を読まれたような気がして、アステアは身体を硬くする。
アステアは息を詰めて、朝靄の中に浮かぶアランの横顔を見つめた。
「敵が近づけば寝ていても俺は気づく。お前が寝ていたところで大した問題じゃない」
淡々とアランは言った。淡々としすぎていて、本気でそう思っているのか、それとも皮肉のつもりなのか、アステアには判断がつかなかった。
土に触れて温度を確かめていたアランが納得したように頷き、身を起こしたアステアに視線を移す。
静かな目でじっと見つめられて、アステアは落ち着かない気分になった。
やはり怒っているのだろうか? さっきの言葉は皮肉だったのだろうか?
(……アレ?)
そーっと上目遣いで見上げると、アランがふっと空気を緩ませて笑ったような気配がした。
何事か呟いたようにも。
「アラン?」
「早く準備しろ。置いていくぞ」
改めて顔を見ようとしたが、その時にはすでにアランは彼女に背を向けていた。

目覚めたアステアに昨夜見た翳りは無かった。
申し訳なさそうな表情や、やや不機嫌そうな表情も見せて、少なくともアランにはいつも通りのアステアに見えた。
「それでいい……」
お前が闇など抱えるな。陰を引き摺るな。
アランが目を覚まして最初にアステアを見た瞬間、願った事だ。
こちらを見上げてくるアステアを見つめて、アランは不思議な安堵感が心に広がるのを感じていた。
「アラン?」
アランははっとして彼女に背を向けた。悟られるのはまずい。何というか非常にマズい。
荷物を袋に押し込みながら、アランはそっと後ろの気配を伺う。
背後のアステアはしばらく動かなかったが、程なく物音を立てはじめた。
昨夜といい、その前の盗賊の時といい、少なくともアランの闇の部分を幾度か目にしていながら、アステアは彼から離れることなくついて来ている。
アッサラームで「ついて行く」と宣言された時から分かってはいた。
アステアが意思を曲げることはないだろう。余程のことがない限りは。
しかし―――少なくとも自分が彼女に良い影響を与えられるかと問われれば―――否、だ。
そこで肯定できるほど、アランは自惚れることは出来ない。
昨夜のことを思い出す。アステアが悪夢を見たのは、まだあの殺人が心に引っ掛かっているからだろうと容易に想像できた。
アステアは多分『正しく』育てられた勇者で、アランは違う。どちらをも受け入れた身だ。
そこには明らかな差異がある。人の核を成す根本的な感覚がズレている。―――すれ違う。
意思と魔力と言葉とが噛み合っていない、呪文を発動しそこねた時のような嫌な感覚が彼の身を苛む。
すれ違いは誤解を生むだろう。誤解は距離を作るだろう。距離はいつか断絶を生むだろう。
誤解は気にならない。他人が何を考えているかなんて完璧に想像するのは無理だし、どう思われていようとも、アランにとってはどうでもいいことであるし、何の関わりもないことだ。
―――ホントかよ。
では何故こんな『嫌な感覚』を持て余しているのかという疑問を抱くことを、彼は無意識に拒絶していた。
「準備できたよ、アラン」
「……」
返事をせずこちらを見る目をぼんやりと見返すと、アステアはきょとんと首を傾げた。
「アラン? もしかして君、実は朝弱い?」
「弱くねぇ」
アランは思わず憤然と言い返していた。

地図を取り出して地形と方位を確認し、進路を決める。
そういう実利的なことに関しては、たとえ地上の地理に疎くてもアステアの方がずっと詳しい。
アランも知らないわけではないのだが、現実に即した知識と言う意味ではアステアの方に分があった。
例えば道の歩き方、薬草野草の見つけ方、火のつけ方、果ては料理の味付けに至るまで。
「形状や効能、植生まで知ってるのに、何で見つけられないの?」
アステアの背負う袋の中には、歩いていて発見した二種類の薬草と山菜の束が入っている。
どれもアステアが見つけたものだ。アランは言われるまで全く気がついていなかった。
「経験の差と目の違いだろ」
いつもの如くあまり感情の見えない口調だ。しかし言葉の内容を聞くと、どうも面白く無いと思っているのではないかと思わせる。
「お前はある程度アタリをつけて探している。俺にはそれができない。植生についての知識があっても、それが本当にどういう環境なのか身をもって知っているわけじゃないからな」
アステアは非常に納得したようすで大きく頷いた。
「なるほど、頭でっかちってことだね」
「……貴様ケンカ売ってるだろ……」
和やかな会話はそこで途切れた。
アランの目がすっと細まり、アステアの呼吸が変わる。
馴染み深い魔物の気配に二人は同時に剣を抜き、油断無く構えた。
鬱蒼と繁る草木をかきわけて飛び出してきた魔物を、絶妙の連携で地面に転がす。
まるでそういう作業であるかのように、淀みなく敵を打ち倒していく。
彼らは単に実力があるだけでなく、自らの腕に奢らず慢心しない。戦いに絶対は無いと理解しているから、油断しないのだ。
故に、強い。
故に、彼らは勇者の称号を許されている。その血だけを理由とせず。
……最後の魔物を倒して、ひとときの静寂が周囲に訪れた。
局地的な嵐に虫達は身を潜めていて、梢の揺れる音と二人のやや荒い呼吸だけが音として認識される。
アランはロトの剣をじっと見つめていた。
血の臭いに惹かれて他の魔物がやってくる危険性を理解してはいたが、それでも見ずにはいられなかった。
刀身を血が流れ落ちていく。彼が斬った魔物の血。
鍔に付着した血すらも刃を伝い、ゆっくりと地面に吸い込まれていった。
しかしアランの目に映っているのはそんなことではない。
アランはぐっと唇を噛み締める。
銀色に美しく光る剣は、汚れなき抜き身の姿を取り戻していた。

最初の戦闘の後、いつもにも増してアランの口数が減った。
それまではアステアが話しかければそれなりの返事をしていたのに、今は「ああ」とか「そうだな」とか、あたり障りの無い応えしか返さないのだ。腹の立つことに無視もかなりある。
心ここにあらず、というのとは違うらしい。戦闘はいつも通り的確なものだ。
やっぱり朝のことで怒っているのか、いやでもその後は普通に喋ってたし……アランの無口の理由に思い至らず、アステアは心中で首を傾げる。
何かあるとするならば―――
(……まただ、また見てる)
何度か戦闘を繰り返して気がついた事がある。
剣を振るった後、アランは必ず刀身を見つめているのだ。
怖いくらいの無表情で、上から下まで、何かを見逃すまいとするかのように鋭い目つきで見ている。いやむしろ睨み付けている。
縁起を担ぐとか儀式のようなものかとも思ったが、仲間になった時彼にそんな癖はなかった筈だ。
性格的にも彼が『縁起を担ぐ』などとは考えにくい。
そういえばアッサラームでも刀身を覗き込んでいた。あの時は何も深刻なことは考えなかったけれど。
じゃあ、アランは何をしているの……?
ロトの剣を見ている? それとも、流れる血を見ている……。
「……っ、アラン!」
不意にアステアの心臓がざわめいた。煽るような風の音が、更に不安じみた心をかき立てる。
気がつけばアステアはアランに駆け寄っていて、彼の剣を持つ腕を強く掴んでいた。
「アステア?」
「剣、見るのやめよう、アラン……何だか……何だか」
うまく言葉にできなくて、もどかしい思いだけがただ心を支配する。何故か耳もとから聞こえてくる心臓の拍動が、更に彼女を焦らせる。
この不安感は過去に感じたことがある。それもつい最近に―――そうだ、夢だ。もう覚えていないが、昨夜見た夢。
『引き戻さなければ』、何故かアステアは強くそう思った。でなければ『置いていかれる』。
「……とりあえず、手、外せ」
アステアはますます強く腕を掴んで大きく頭を振った。まるでイヤイヤをするように。
アランのため息が耳に届く。恐らく呆れた表情をしているのだろう。自分でも思うのだ、らしくない、妙なことをしていると。
アステア、と吐息混じりに名を呼ばれたその瞬間、アランが思いっきり腕を振り払った。
乱暴な手段に、当然アステアは驚いて手を放してしまう。
「ア、」
「とりあえずここを離れる。話は後だ。行くぞ」
アランは剣を鞘にしまうと、シワになった袖を適当に直し、アステアに一瞥をくれてさっさと歩き出してしまった。
アステアはそれを呆然と見送って―――慌てて追いかけた。
前を行くアランの背中に何か言いかけて、止める。そんなことを何度か繰り返した。
結局何を言いたいのか自分でもわからないのだ。
先刻あれだけはっきり拒絶された後だ。無駄話をしてみたところで返答はないだろうことも分かってはいる。
さくさくと地面を踏みしめる音がやけに大きい。
二人きりで黙り込んでしまうと、普段以上に沈黙が重い。
息苦しさすら感じるほどの無言の行軍を破ったのは、なんとアランの方だった。
「なあ、アステア」
「な、何?」
驚いて声が上ずってしまい、アステアは赤くなった。もっともアランは前を向いていて、彼女の顔色には気付かなかったが。
「この剣は俺に相応しいと思うか?」
それは全く予想外の質問だった。一瞬思考停止していたアステアだが、慌てて質問の意味を頭の中で反芻する。
ロトの剣はローラン王家に伝わる勇者ロトの武具の一つ。アルスという存在があっても、アランが正当な所持者であることに間違いは無いのだが。
彼が聞きたいのは、そんな客観的正当性などではない筈だ。
(アランに相応しいって……でも、剣が主語?)
つまりアランは『ロトの剣』にとって、自分が相応しくない遣い手だと思っている?
何故、どうして? そこが分からない。アステアは混乱していた。
アランはいつだって自信に満ちている印象があった。何事にも手を抜かず、何でもないことのようにすべき事をこなすからだ。
それがどうだろう。この、弱音のように聞こえる問いかけは。
「俺は……これを持ってくるべきじゃなかった」
アステアの返答を待たず、アランは続けた。歩く速さは変わらないまま、独り言のように。
「こいつは、俺に罪を忘れさせる」
「……!」
アステアは息をのんだ。アランが罪と言うなら、それは一つしかない。
ジャガン。魔人王としての、過去。
……君に罪なんて無い。そう言うのは簡単だったが……何故か、声が出なかった。
アランの、不思議と静謐な雰囲気のせいかもしれない。
今の彼はアステアの言葉を望んでいるわけではないのだろう。アステアはマントの裾をぎゅっと掴んで、ただ彼が語るのを聞いていた。
「この剣は、いつも綺麗なままだ。何を斬ろうともな。とんでもない聖剣だぜ。確かに勇者の、勇者だけの武器なんだ、コレは」
アランが立ち止まって、ゆらりと振り向いた。
澄んだ氷蒼の瞳が揺れている。泣きそうでもなく、傷ついているようでもなく……それは困惑か戸惑いか。
「錯覚するんだよ。綺麗すぎて……まるで俺に罪が無いかのように」
「き、れい……?」
アランが笑った。ほんの少し自嘲じみた感じだったのは、恐らく気のせいではない。
「確認してみるか?」
ちょうどいい、そら、また敵だぜ、とアランは言って、ロトの剣を抜き放った。
どういう事だろうと思いながらも、近づく気配に身構えながら、アステアはちらりとアランの剣に目をやった。
光を弾いて煌めく剣は、技術の粋を集めた芸術品のようで、確かに綺麗で美しかった。


NEXT≫