+++ 幼年期の終わり 3+++

「……行ってしまわれたのなら仕方ない……が、お前が脱走幇助してどうする」
「あら、だって私はこの国の主に仕える者ですもの。それに殿下はより確実な方法を選ばれただけのこと」
「そうは言ってもな……」
「やりすぎたと思ってらっしゃる?」
「いいや、必要なことだったからな。殿下にも自覚していただかないと」
「十分理解していらっしゃいますよ。若さゆえの抵抗でしょう」
「……殿下にも困ったものだな。まさかこのような思いきった手に出るとは」
「恐らく戴冠式までは戻ってこないと思いますわ」
「……それでは非常にまずいのだが?」
「まじめな方ですから、ぎりぎりでもきちんと戻ってこられますよ」
「だと良いがな」
「いざとなれば、私が連れ戻してきますから」
「今すぐ連れ戻してきて欲しいものだ」
「こう考えればよろしいのですよ。きっと、婿となる方を連れて帰ってきてくださると」
「私はそこまで楽観視できん」
「大丈夫ですわ」
初老の男は自分の娘ほどの年齢に見える栗色の髪の女を見やった。
「それはお前の勘か、それとも確信か?」
「さぁ、どちらでしょう」と女は曖昧な笑みを浮かべた。
この女が答えない時に無理に聞き出そうとしても無意味なことはよく分かっている。初老の男は自分の灰色の髪に手をやり、白髪が増えそうだ、と呟いた。
「緘口令は敷いたが……これからが大変だ。ここほど家臣が団結している国も珍しいが、それでも一枚岩ではないからな」
「微力ながらお手伝いいたしましょう」
「お前の力が微力か? 冗談としか思えんぞ」
「我々がどう足掻いても、やはりアステア様のお力にはかないませんから」
現在ラダトームの政治を実質上切りまわす宰相グラールと、影の部分全てを仕切る女官ソフィセラは、明るい「空」を見上げて今はいない彼らの主人を思った。



その主人はまんまとラダトームから脱出し、アレフガルドから地上に出ていた。
「さすがはソフィー。追っ手もいないし待ち伏せもなし……」
埃をはたきつつ、アステアは立ち上がった。
城にいた時とはうって変わって明るい表情である。が、何か考え込むように動きを止めた。
「……『追っ手』はなくても、部下に尾行させるくらいのことはやってるだろうな……」
自分の立場とソフィーの忠誠心の高さを知っている分、それは間違いないことのように思えた。
とは言っても今さらである。
家臣達の迷惑も考えず勝手に抜け出して来たのだから、それくらいは仕方ないと割り切るしかなかった。
旅の扉の祠から外に出ると、朝の日差しと清冽な空気が辺りを支配していた。遠くには町の影が見える。
アステアは冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
「やっぱり、なんとなく地上の空気のほうがおいしいような気がする」
何度か深呼吸した後、アステアはゆっくりと呪文を紡いだ。

少年は駆け抜ける。
追っ手を振り切り、鏡のように顔を映すくらいぴかぴかに磨かれた長い廊下をただひたすらに。
彼の鍛えられた足に敵う者はいない。
いるとしたら……2人ほど思い出したが、今ここにはいない人だ。
回廊を抜けると外庭だ。少年はためらうことなく飛び出した。
何人かが彼に気がついて押し止めようとしたが、少年は素早く動いて誰も体に触れさせない。
背後から聞こえていた追っ手の甲高い声は、すでに遠く離れている。
後は目の前の奴らだけ……少年を出すまいと人の壁を作っている所に、真っ直ぐ突っ込んでいく。
人の壁が彼を捕まえようと前に出たとき、少年は強く砂を蹴った。
人の肩ほどまで跳躍し、目の前にある人の頭に両手をついて、思いっきり体を前に押し出す。
驚愕の表情を顔に張りつけた人々を見下ろして、少年はしてやったりと嬉しそうに笑う。
すとん、と地面に降り立つと、少年は間髪いれず走り出した。
捕まることは決してない、彼にはそれだけの自信と実力があった。
素晴らしい身の軽さと脚力を披露した少年は、門に向かって疾走する。
あそこを出たら、あとはもう人ごみにまぎれてしまえばいい。
……そんなことを考えていたため、彼は気付かなかった。
門の向こうに現れた人の気配に。
「っ!?」
目の前に赤い色が出現する。
ぶつかる、と思った瞬間体をひねる。相手の方も突進してくる彼を避けようとしたが、少年は勢いを完全には殺しきれておらず、とても間に合いそうにない。
結局―――彼はその人影を避けきれず、接触して派手に転倒した。
(気をつけよう。ルーラは急に止まれない)
そんな言葉が脳裏をかすめ、同時に彼は計画の失敗を悟った。

すごい勢いで走ってきた人物をかわせず、アステアはその場でしりもちをついてしまった。
ずっと事務処理ばかりだったから鈍ったのかなと思いつつ犯人に眼をやると、彼女よりさらにダメージの深そうなこけ方をしている見覚えのある人物がいた。
「ええっと……アルス?」
「や、やあアステア。大丈夫だった?」
起き上がりながら、ばつの悪そうな表情でアルスは言った。
割と仕立てのいい服が砂にまみれて台無しである。
走るのに何故こんな服が必要なのだろう?そもそも何故こんなとんでもない勢いで走ってきたのだろう。 とりあえず彼女は素直に聞いてみた。
「大丈夫だけど……どうしてそんなに急いで……」
アステアが言い終わる前に、アルスは突然「ごめんっ!」と叫んで身をひるがえした。
何がどうなっているのか理解できず、町のほうに逃げるように走り去っていくアルスを見送っていたが、城内から息も絶え絶えな様子でやってくる教師らしき人物と侍女達を見ておおよその事情を理解した。
「はぁ、はぁ……アステア様……、よ、ようこそいらっしゃい…ました…」
「すぐ……ほかの者を、呼び、ますので……いましばらく、お待ちを…」
「あの、無理しなくていいですから」
「アルス様は、どちらに……」
「たぶんそこで……あ、つかまった」
アルスは門から少し離れたところで、外から戻ってきたボルゴイに捕獲されていた。

カーメン王と王妃への謁見を済ませ、アステアはアルスに会いに行った。
世界の、真の勇者様は勉強に追われて脱走をかましたらしい。
およそ勇者らしくないことをと嘆く王に同調したものの、実は彼女自身も国政を放り出してきた身であるため、何となく居たたまれないような気分を味わう羽目になった。
「でもまさか、勉強がいやで、とはね」
考えてみればアルスと自分とでは成長過程がかなり異なっている。
自分はラダトームの王城で何不自由なく(というわけでもないが……)育てられ教育を受けたが、アルスは生まれてすぐ国が滅ぼされて逃げ出すことになり、10歳まで隠れ里で育てられている。
生きるための技術は教え込まれていても、いわゆる帝王学は学んでいないということだ。
しかしこの学問がというよりもむしろ、机にかじりついて教師に叱られながら勉強するというのが肌に合わないらしい、と国王夫妻は語っていた。
確かにアルスは勉強してるよりも外を走り回ってる方が似合いそうだな、とアステアは口元をほころばせた。
「アステア?」
ちょうどその時、アルスがやってきて入り口から顔をのぞかせた。笑っているアステアを不思議そうに見る。
砂まみれになった服は洗濯行きになったらしく、別の服に着替えている。
また口元が笑ってしまいそうになったので、アステアは笑顔でごまかした。
「久しぶり、アルス」
「うん久しぶり、アステア。元気にしてた?」
「おかげさまで」
「ラダトームの方はいいのか? 結構仕事が大変だって聞いたけど……まさか」
「……言わずもがなって奴だと思うけど?」
二人の脱走者(内訳:完遂一名、未遂一名)は顔を見合わせると、ぷっと吹き出した。
「早く帰ってやりなよ。皆、きっと心配してるよ」
「……大丈夫だよ」
アステアが答えるまでしばしの間があったことに、アルスは首を傾げる。
「…何かあったのかい?」
「ちょっと……ね…」
理由は分からないが、あまり触れられたくない話題らしい。
アステアにしてみれば、もしかしたら自分と婚約するかも、などという話題は振りたくない。何よりアルスのことだ、そんな話があることを知っているとは思えなかった。
どこか気まずい雰囲気が漂いはじめたため、アルスは慌てて話題を変えた。
「さっき笑ってたけど、何か面白いことでもあった?」
「ちょっとさっきのことを思い出してね」
今の今までボルゴイにしぼられていた脱走失敗の話題を振られ、アルスは仏頂面になった。
「勉強が嫌で逃げ出したんだって? 皆が聞いたら何て言うだろうね」
アルスは疲れた表情で椅子に沈み込んだ。
「なんだかよく分からない数字と文字の羅列とか、法律とか……もう嫌だー……」
「勇者様がそんなに簡単に弱音を吐いていいの?」
「アステアがいじめる……」
「だって僕も昔同じ目に遭ってるんだから。だんだん内容が高度になるから、大変だよ」
アルスはうぇ〜っと変な声をあげて、椅子からずるずるとずり落ちた。
「不謹慎かもしれないけど……異魔神と戦ってたときのほうが良かった……」
アステアはさすがに苦笑を禁じえなかった。
アルスも苦笑して椅子に座りなおす。
「勉強はいいから、剣術の練習がしたいよ……」
「ボルゴイさんは?」
「たまにやるけど……やっぱり年だし、長い打ち合いとかは無理なんだ」
「なら、アランに相手してもらえばいいだろう?」
「もうここにはいないよ」
「え?」
確かにアステアはここに来てからアランの姿を一度も見かけていない。
ああ見えて意外と律儀な性格だから、顔を出すくらいはするはずなのにと不思議に思っていたのだ。
「てっきり、まだこの国にいるものだと思ってたけど……」
「十日くらい前かな……突然出て行ったんだ」
「出て行ったって……どこへ?」
「それが分からないんだ。教えてくれなかった」
「ルーラで出ていったのか?」
「いいや。城を出ていこうとしているのを僕が呼び止めたんだ。歩いて出ていった以上、呪文は使ってないと思う。でも……本当に、何故なんだろう……」
一瞬、どきりとした。アステアはその動揺をアルスに気づかれないよう、そっと視線を壁に向ける。
(あの時……彼は何と言っていたんだろう? きちんと聞き取れなかったけれど)
別にそんなつもりで渡したわけではなかったのだが、アルコールが彼の本心を引き出していたはずだ、とアステアは思う。
確かにあの時、彼は何事かを口にしていた。
アランの微妙な表情をアステアは覚えている。
(あれは不安?焦り?それとももっと別の何か? 「何故」……誰にも行方を知らせずに出て行くような悩みがあったっていうのか?)
「…前から様子が変だとは思ってたんだ」
アルスは口元で手を組み、少しかがむような格好で中空を見据え、言葉を続けた。
「ぼんやり窓の外を眺めてたり、呼んでもなかなか返事が返ってこなかったり……出て行く前の日に剣の相手をしてもらったけど、何だか上の空だったし……僕にあっさり一本取られたんだ」
「あっさり? 彼が?」
「うん、意外だろ? 僕も一瞬信じられなかったんだけど……」
「それは確かに変かも……」
深刻な表情で黙り込んでしまった二人に、やわらかな声がかけられた。
「お話は弾んでいるかしら?」
「! お母さん!」
驚いたように振り向くアルス。アステアは立ち上がって軽く会釈した。
ローザ妃は優雅に会釈して微笑んだ。髪に白いものが混じり始めているが、大人の落ち着きと少女のような愛嬌のある表情を併せ持った、年齢を感じさせない女性である。
「お邪魔だったかしら?」
「そんなことないよ。びっくりしただけ」
「そう?」
ローザは椅子に腰掛けつつちらりとアステアの方を見た。それからのほほんと笑っている息子を見つめ、なにやら瞳に残念そうな光を閃かせたが、二人がそれに気付くことはなかった。
「何のお話をされていたの? 差し支えなければ教えてくださる?」
「何のっていうか……アランの事を話してたんだけどさ」
「ローザ様は何かご存知ではありませんか?」
ローザは困ったような表情を浮かべて「残念ですけれど」と呟いた。
しかしその後、肩を落とした二人に意外な答えが返ってきた。
「でも、彼の行き先なら多分、分かりますわ」
「えっ?」
「アラン王子が旅に出る前日に、少し、お話をしたのです」
「話って…」
「アラン王子の母君……フレイア様のことを」
「じゃあ、アランは……」どことなく納得したような表情でアルスは呟いた。
「ローランに行ったってことか」
「おそらくは。ただ、私と話をする前から出て行くつもりだったようですけれど……」
「話を聞いて、目的地をローランに決めたかもしれない…」
「ええ。仮定の話で申し訳ないのですけれど…間違いないと私は思います」
沈黙が落ちた。
訳のわからぬ焦燥がアステアの心を侵していく。
(多分…きっかけは僕だ)
宴の夜、一人他人を寄せつけず佇んでいた彼。
ゆらめく炎が作り出す光と闇の境目で、虚ろな瞳で空を見上げていた彼。
常に表情を変える炎の乱舞の中、決して侵食され得ぬ闇のように見えて―――
(怖くなったんだ。だから問い掛けた。彼が僕達のもとに留まってくれるという答えを期待して……)
アステアはすっと顔をあげた。
「追いかけます」
突然の宣言に虚を突かれた二人は、あっけにとられた表情でアステアを見た。
「アステア?」
「……そうしなきゃいけない気がするから」
「どういう意味かよく分からないんだけど…」
顔じゅうに疑問符を貼り付けてアルスが言う。その声に重なるようにローザが問い掛けた。
「彼の目的地は分かっても、今どこにいるかまでは分からないのですよ?」
「大丈夫です。それも大体……予想はつきます」
「……アッサラーム」
「ええ。わざわざイシス砂海のほうに出るとは思えませんし、海に出てから北上してアッサラームに行ったと考えるべきでしょう」
アステアの瞳には揺るがぬ決意が宿っていた。
「…本当に行くつもりなのか」
アステアは答える代わりににっこりと笑う。
不安そうに、また何か言いたげにしていたアルスだが、アステアの笑顔を見て諦めたような笑みを返した。
そんな二人のやりとりを見ていたローザは小さくため息を吐いた。
彼女がひっそりと抱いていた望みは、どうやら叶いそうにない。
(もったいないけれど……仕方ないわね。まぁ、現実的に無理があるのは分かっていたし)
「お母さん?」
「何でもないわ。そうね…ラダトームにはうまく誤魔化しておきましょう……どうか、お気をつけて」
お礼の言葉を述べて、アステアは立ち上がった。
「アステア、一つだけ聞かせてくれ。……どうして、なんだ?」
青い澄んだ瞳がアルスを見つめる。
「彼が旅立ったのは、きっと僕のせい。だから……」
アステアは拳をぎゅっと握りしめた。

「僕は彼の出す答えを知りたい」


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