+++ Irony B +++

+++ Irony B +++ ぐるぐると世界が回る。眩暈なんてあっさりした言葉ではこの感覚は言い表せない。
視界に映るものは全て輪郭が歪み、奇妙に色が交じり合ったおかしな物体が浮遊している。
時にモノクロ写真のように反転して、視神経の奥で眩しく光が明滅する。
耳の奥ではわんわんと幾度となく反響する耳鳴り、何千何万何億匹もの蠅が飛び交っているかのよう。
頭が割れそうだ。身体が痛い。心臓は捩れて血液を止めて身体の隅々にまで猛毒を流し込み膨張した細胞は周囲の細胞と食い合って死滅していきやがてテロメアは擦り切れ遺伝子の一つ一つまでも狂いだして配列が分断され変質し消滅してこの身はいずれ―――――
「ぐ、は……」
余計なことは考えるな。ただ耐えるだけでいい。
もうしばらくすれば痛みは治まる。
薬の効きがいささか弱くなっているのは、少しずつ進行しているためだろう。量を増やさなければ。
それはずっと以前から分かりきっていることだったし、もはやいちいち怖い苦しいなどと思うことはない。
恐ろしいのはただ一つ。
この命は彼のためにあると決めたのに、何一つ為せぬまま死ぬことだ。
意味のない人生に意味を持たせてくれた彼のために、何かを―――


他人に不調を気取られたのは不覚としか言いようがない。
だが今度の発作は予想以上に強いもので、耐え切るには強烈に過ぎた。
近寄ってくる長身の影。緑の軍服ということは一般兵か。
半分麻痺した思考で考える。視界もまだひどく乱れたままだ。
彼が何か手に持っているのは見えたが、理解できるのはその程度だ。
問いかける言葉は単純にこちらを心配してのもので、他者を思いやるとは随分と余裕のある人だ、とやや刺々しい感想を抱く。
それは自分にはないもので、あるのはただこの壊れた身体と、あの人への。
――珍しく、羨望を抱いた。
全身を切り刻まれ鈍器で骨という骨を叩き潰した上に、数え切れぬ程の太い針で刺し貫かれるような痛みが退いていく。
呼吸を整え、汗を拭い、まだ少しふらつく頭を上げながら、隣に座る相手に感謝の言葉を告げる。
気が紛れたおかげで、痛みに耐える時間がほんの少し短く済んだような気がする。
そしてゆるやかに焦点の合った視界に―――

レイ・ザ・バレルは、今すぐ生命活動を止めたくなるような破滅的な光景を見た。

何か、有り得ないものが視界に飛び込んできた。
見たものが一つずつなら何もおかしくはなかった。しかし二つセットとなると、逃げを打つ以外にどうしようもない。
「また顔色白くなってんぞ? 大丈夫か?」
大丈夫ではありませんと答えたつもりが、言葉になっていなかった。
普段ならばまだ耐えられた現実は、発作直後のレイの神経には、致死性の猛毒であった。
豪華な金髪と褐色の肌、背は高く均整のとれた体つき、世の中を斜めに見るような皮肉っぽい表情。
どこにいても目立つ容姿の兵士、彼のことは知っている。
ディアッカ・エルスマン……かつて三隻同盟に所属し、現在は赤から緑に降格の上、ジュール隊副官の地位にいる青年だった。
三隻同盟に所属していた者は皆優秀でね――あの人の声が響く。
少し憂鬱そうに微笑した彼の言葉の裏の意味を汲み取れば、つまり彼らは要注意、ということだ。故に彼の情報もある程度詳しく頭に叩き込んである。
自らの意思で三隻同盟に参加し、戦闘員の一人として、ザフトレッドでありながらもアークエンジェルに乗船。ヤキン・ドゥーエの生き残り。
経歴をなぞれば銃殺刑すらありえたが、あの人によって救われ、軍に復帰……にも関わらず、議長を信頼していない節がある要注意人物……。
の、はずだ。
間違っても“子供サイズの女の子の人形を抱っこする男”という意味での要注意人物、ではないはずなのだ。
彼と同じ色の長い髪を垂らし、レースでふんだんに飾られた絹のドレスを纏い、ガラスの目で虚空を見つめるアンティークドール。
それだけならば鑑賞に値しよう。
しかしながら軍服を着た男性が抱きかかえているとなると話は変わる。
膝の上にお人形を乗せて、抱きしめているような格好で座っている彼の姿を直視することは不可能だ。
レイは死ぬ気で目を逸らしたが、もちろんとうに間に合わず、その姿をしっかりと捉えてしまっていた。
「……いえ、ちょっと……」
お前は変態か、と口走りかけて危うく止める。自分はこんなに口が悪かっただろうか。
あまりに衝撃が大きすぎて、発作の後のけだるさすら吹っ飛んでしまった。その辺りだけは感謝したい。
「ああ、コレか? プレゼントなんだけど」
誰もそんなことは聞いていないが、遮るだけの体力がレイにはなかった。
「誕生日プレゼントってことで送られてきた。恋人から」
そんなのは絶対に恋人ではない。むしろ彼も送り主も変人に違いない。
何故基地に送られてきているのか、そこからして意味不明だ。こんな代物、怪しまれて包装も全部引き剥がされて調べられてしまう。それではプレゼントの意味を成さないのではないだろうか。
……そもそも成人男性に人形を贈る時点でおかしすぎるのだが。
「検閲のせいで誕生日には間に合わなかったけどな。でも嬉しいよ、アイツが俺の誕生日を覚えててくれて」
それが明らかに嫌がらせと分かる人形でも、ディアッカ・エルスマンという人間にとって、恋人からのプレゼントというだけで丸ごと受け入れられる事項らしい。
――どこか――何か――近しい感情が湧き上がる。
アンティークドールを堂々と持ち歩けるという神経だけは、とてもレイには持ち得ないモノであったが。
大切な人を想う心は、程度の差こそあれ同じはずである。
……まだ小さかった時分、あの人に手渡された小さなビン。
あの人にとってレイというクローンの子供がラウの代替品であっても。
ビンの中の錠剤が輝かしい未来を運ぶものでなくても。
数年先の死を約束された生の中で、あの人だけがレイの行く道を示してくれたのだ。
レイはアル・ダ・フラガという人間のクローン、本来ならばどこにも居場所などなかった彼に、あの人はそれを作ってくれた、唯一の人。
だからこの身はここにある。ギルバート・デュランダル、彼と彼の描く理想のために。
「……その方は、あなたの唯一の人なのですか」
レイにとってのデュランダル議長のように。
「――身体も心も全部俺のものにしたい好きな女って意味なら、確かにあいつは唯一の人かもな」
「その人のためならば全てをなげうってでも、願いを叶えてあげたいと思えるくらい?」
ラウ・ル・クルーゼが示した現実。嘲笑、嫉妬、憎悪、復讐、愚かな戦いの連鎖。
あの人は、それを止めようとしている。
誰一人無益に死ぬことのない幸福な世界を現実にと。途方もない計画を、着実に進めている。
レイ・ザ・バレルはそのための主要な駒であることを自らに課している。彼の望みのままに。
「そりゃあな。……反対すべきことには反対するけど」
そうですか、とレイは乾いた声で相槌を打った。
それはレイにはあり得ないことだ。彼がギルバート・デュランダルの意に反することは決してない。
レイが拠って立つものは自分自身ではない――彼を支えるのは、自分のような存在が二度と生まれないようにという、遥か遠き理想。デュランダル議長の望む『幸福な世界』。
「大切な人のためなら、どんなこともできる……受け入れる。私と貴官は本質的なところで似ているかもしれない」
本質的には似ている。けれど決定的に違うと理解している。
ディアッカという男は自分自身のために。レイは『ギル』のために。
確たる明日を持たない少年は、そうして生きることに何も疑いを抱かなかった。

遺伝子という糸に縛られた操り人形。
『レイ』が一個の命であると理解し、自分自身の生への欲望を自覚して、その無意識の糸を断ち切るまで。
未だ、道は遠い。


 →A ver.


気付けばディアッカの誕生日をダシにしたレイ話です。
最初ディアッカバージョン合わせて一つの話でしたが、しんどかったので分けました。
D小説参考にしましたが、正直レイがらしく描けてるか不安(苦笑)
ディアミリ話でもない、妙なSSにお付き合い下さいましてありがとうございました。
2006.4.10 イーヴン