+++ ロト紋命題 11〜15 +++

† 12. 血 †

16.雨→17.敗北→18.王の続編です。

城全体が戦場の喧騒につつまれる中、その一角だけはひっそりと静まり返っている。
そこだけが地上の騒ぎを忘れ、時間から取り残されたように存在している。
通路の幅は広く、目に鮮やかな緋色の絨毯が敷かれている。明らかに貴人の間に続く通路だ。
にも関わらずここを護る者が誰一人としていないというのは、おかしいを通り越して異常だった。
階下に兵達が集中しているからという理由だけでは説明がつかない。守る者がいなければならない場所だというのに。
そこに立つ影はかすかに首を傾げた。
血臭と悲鳴と怒号に満ちた世界とは切り離された、清浄な空気が辺りを満たしている。
覚えがある―――遠い過去に。
「……魔を退ける結界か」
纏いつく空気は煩わしいが、彼を傷つける程のものではない。
これを罠と見るにはちゃち過ぎた。ここの人間どもは馬鹿なのかそれとも単に何も考えていないのか?
それとも―――ここに住まう筈の人間は既に逃げたから、これだけ無防備なのか?
だとすれば彼の求めるものは―――二重の意味で、ここには存在しないことになる。
さて、どうかな、と彼は楽しげに口元を歪めた。
そうであるならば、彼が完全に覇権を握るだけのことだ。目的の一つは確実に果たされる。
ラダトームはそれほど大きな国ではない。大陸全土を見渡せば、むしろ小さな国と言えるだろう。
地上世界であれば、このようなちっぽけな一国を陥落させただけでは全土の支配など不可能である。
だがアレフガルドという世界は違う。
ここはルビスの力によって護られた揺りかごだ。
ラダトームはその要である。ただ一人、ルビスに愛された青年ロトの血を受け継ぐ一族の土地。
揺りかご全体に、隅々までルビスの力が行き渡るのは、この要の地が存在するからだ。
ラダトームを陥落せしめれば、魔族と人の力の均衡が完全に崩れ去る。彼の狙いはそこにあった。
この国が古い国であること、ロトの血筋であることは今や誰もが知っている。
しかしアレフガルド全体の要であることを知るものは少ない。
もしかしたら今の王族ですら、その伝承を失っているのかもしれない……。
ラダトームはただ光の玉を護るだけの国ではない―――だが、平和な時代はいとも容易く戦乱の過去を忘れさせていった。
「弱い国になったものだな……」
初めて彼がラダトームのそばに居を構えたとき、まだ復興途中とはいえ民の王への信頼は篤く、いかに長き戦に疲弊した後と言えど、不用意に手を出せない威光と国としての地力の強さを感じさせていた。
だがこの有様はどうだ。平和に慣れた兵隊は奇襲に混乱し、統率を失い、城の最深部にまで敵の侵入を許している。
彼はひっそりと口元に笑みを浮かべた。
それは喜びや嘲笑ではなかった……もしも誰かが見ていれば意外に思ったであろう。
どこか残念そうな、悲しげな微笑だった。
遠い約束は未だ彼の中で色褪せてはいないのに、それが果たされることはもはやないだろうという、諦観の笑みだった。
仕方がない。魔族……或いは神族である彼と人の寿命は違いすぎた。時間が流れすぎたのだ。
彼がただ一人認めた『人間の女』―――彼女の血を継ぐ者がいたとしても、それは、もう。

「入ってこられないのですか?」
彼の思考を遮るように、凛とした声が響いた。
鈴を振るような、と表現してもよい、年若い女性の声だ。しかしそこに込められた意思の強さは本物で、彼は即座に緊張を強める。
声が聞こえたのは、彼の足で数歩先の扉からだった。……ほんの僅かに、開いている。
「どうぞ。私は逃げも隠れも致しません」
彼はしばし思案に暮れた。このまま扉ごと向こうの人間を吹っ飛ばすべきか、否か。
だが彼女の声に興味をかきたてられたことは事実である。顔も見ないまま殺すのは勿体無い。
ふむ、と彼はひとつ意味もなく呟き、 「失礼する」
礼儀正しく声をかけて、その扉を押し開いた。
最初に目に飛び込んできたのは、華奢な小卓と二脚の椅子、それから二人分用意された茶器。
室内はそれほど広くはないが、足元に敷き詰められた絨毯も、配置された家具も最上級のものだと見てとれる。花瓶に生けられた花は生き生きとして、艶やかに咲き誇っている。
ふと壁際にかけられた絵の人物と目が合って、彼は苦笑した。ラダトーム中興の祖……名は言うまでもない。
彼は絵から視線を外し、窓際でこちらを見つめ佇む少女に意識を移した。
それは誰譲りの血であろうか、彼女は柔らかな金の髪を背に波打たせている。
澄んだ青い瞳は彼から逸らされることはなく、際立った美貌にも動揺の色は見られない。
―――この度胸は先祖譲りか。
心躍る気持ちを抑え、僅かに腰を屈めて女性に対する礼を取る。
「初めてお目にかかる。お招きにあずかり光栄の至り」
「わが国への訪問は随分と礼を失したやり方ではありましたね。ですが女性の部屋に入室する際の礼儀は心得ていらっしゃるようで、安心致しましたわ」
少女はそこで言葉を切り、彼から数歩の位置まで歩み寄って、スカートをつまんで一礼した。
「私はラダトーム王女、ローラと申します。ご挨拶が遅れましたことをお詫び申し上げます、竜王陛下」
ラダトームを襲撃した敵の首魁に対し、王女ローラは怯むことなく面を上げてみせた。
竜王は興味深そうに金色の少女を見下ろした。
身体に満ちる魔力は申し分ない。ただ格闘技の類はあまり嗜んでいないようで、身体は細くやわらかく、普通の人間よりも些か体力は劣っている。ある意味王家の姫らしい姫に見えたが。
しかし魔族の王を前にして一歩も退かない度胸と精神は、一朝一夕に養えるものではない。
「俺を迎え入れるとは、また思い切ったことをなさる王女だ」
「もちろんあなたに用があるからお呼びしたのです。……光の玉はもうあなたの手に渡ったようですね」
「安置場所が昔と同じとは思わなかったがな。あれでは俺に盗ってくれと言っているようなものだ」
「それは仕方がありません。聖地に安置してこそ、玉は力を発揮するのですから。……それに本来、あの地に魔族は入れぬのです。そこに侵入できるあなたは何者ですか、竜の王」
「さて?」
今や人間の中に竜王の出自を知るものはないだろう……そしてわざわざ知らしめる程のことでもない。
竜王とは、魔族の王の名だ。勇者の敵対者。それ以外の理由など要らないのだ。
「それが目的か、ローラ王女」
「いいえ、まさか」
「では、何だ? 俺は光の玉を手に入れた。ここに足を運んだのは偶然に過ぎぬ。もはやここに用はない。つまらぬ用件であれば捻り殺してくれよう」
「用はない? そんなことはないでしょう、あなたは一つ、大事なことをお忘れです」
「なに?」
竜王は眉間に皺を寄せ、王女の青い目を見下ろした。
ローラは右手を胸の高さに上げ、エスコートを待つかのように手のひらを下に向け、竜王に手を伸べて。

「どうぞ私をお連れ下さいませ」

……さすがの竜王も声を失った。
王女ローラは戦う力こそ持たないが、紛れもなくロトの血を引く娘だった。
そう、そんな人間がいればいいと思っていた。理由もなくここに足を踏み入れたのは、アステアの面影を、約束を探していたからだ。
ずっとずっと昔、竜王と彼女は他愛もない話をした。
竜王がアレフガルドの王となるのなら、ロトの血筋が黙ってはいないと。ならばその子孫を捕らえよう、と。
「……王女よ、お前は俺とアステアの約束を知っていたのか?」
「ラダトーム王家の女性にのみ語り継がれている話があります。竜王が牙を剥いた時、ラダトームに勇者の資格あるものがいなければ、速やかに彼の虜囚となれと」
ローラはふと年齢相応の、少し悪戯っぽい笑みを見せた。
「竜王は紳士でいらっしゃるから、と」
「…………」
竜王は思いっきり苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。
してやったりと思ったのかどうかは分からないが、ローラは再びすましかえって言葉を続けた。
「ああ、それと。―――お役目たる私がここを離れることで、勇者が現れます」
「!!」
「……私を連れてゆく理由ができたでしょう、竜王陛下。あなたは、勇者と戦うために存在するのですから」
さあ、いつまで淑女を待たせるのですか、と急かされて、竜王はローラの手をとった。
白く柔らかく剣だこの一つもない手は記憶の中の彼女と全く違う。それでもその小ささは、懐かしい彼女を思い出させた。
「いいだろう。覚悟はよいな、ローラ王女」
ローラは無言で頷いた。やや緊張気味に身体を震わせたものの、穏やかに目を閉じている。
―――たいしたものだ。もしかしたら……そう、もしかしたら、俺はロトの女に敵わないのかも知れぬ。
「……たしかにあれらの子孫だ、また面白い姫君を生み出したものだな」
「褒めていただいているのでしょうか?」
「無論だ。……ふむ、どうせなら俺の妻になる気はないか、ローラ王女」
ローラは随分と上にある竜王の顔を見上げてにっこりと笑いかけた。
「お断りいたしますわ」


16.雨→17.敗北→18.王の続き。ローラ王女と竜王。
2006.5.16 イーヴン

≪06〜10   16〜20≫